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矛盾への浄化

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 坂田にとってスナック「メモリー」は、研究所を離れてからの自分を、顧みることができる唯一の場所に思えていた。
 坂田は、後から聞いた話で、はづきの意識が朦朧としている時、
「その人がどんな人の生まれ変わりなのかが分かる」
 ということを口走っていたのだと、担当ナースから聞かされた。
 その時には、すっかり元気になったはづきもそばにいたのだが、
「私がそんなことを言ったの?」
 と、口走った言葉に対して、疑問を抱いていた。
 坂田は、そんなはづきに
――無理もないことだ――
 と思ったが、覚えていなかったことにホッとした気分になったのも事実だった。中途半端に記憶が戻ってしまうと、苦しいのは本人だということを分かっているからだった。自然に戻ってくる記憶ならいいのだが、まわりから聞かされて、思い出せない自分に苦しむことは、想像以上のものであるに違いない。
 坂田は、入院中のはづきを毎日のように見舞った。時間的には毎日三十分ほどのものだったが、それは、はづきとどう向き合っていいのか分からずに戸惑っていたからだ。中途半端に思える時間も、適度な暖かさに包まれたのか、お互いに戸惑っていた空気を最初に払拭したのは、はづきの方だった。
――重苦しい空気を払拭させるのは、女性の方が得意なのかも知れない――
 と坂田は感じた。
 そんなはづきを見ていると、戸惑っていながら硬かった表情も次第にほぐれてきたのか、お互いに笑顔を見せるようになると、まわりもホッとしていたようだ。坂田が来た時は入ってこなかった担当ナースも、坂田がいても気にならなくなったようで、二人に気軽に声を掛けてくるようになった。
「だいぶ落ち着いてこられたので、退院も近いかも知れませんね」
 ケガの具合もさることながら、精神的な要素の強さから、入院が続いていた。記憶は相変わらず戻っていないが、笑顔を見せることで、何かが吹っ切れたのではないかというのが病院側の見解だった。
 はづきは自分の部屋に戻って一人になった。
 記憶があった頃とは違って、部屋に帰ってきても、知らない部屋に入ったのと同じことなので、一人には慣れているはずであっても、寂しさという意味では、以前とはかなり違っているものであろう。以前から一人を寂しいと思っていたのかどうかすら、記憶を失った今では分からない。もし、一人を寂しいと思っていなかったとすれば、一人でいることで部屋にも馴染んでくるのであろうが、寂しいと思っていたのであれば、闇が果てしなく続くような言い知れぬ不安がいつまで続くというのだろう。そう思うと、自分のことが分からないということがどういうことなのか、少しずつ分かってくるのだった。
 病院にいても一人に変わりなかったが、看護婦が見ていてくれると思うだけで、それほど不安ではなかった。しかし、退院して一人になると、本当に一人なのだ。誰に何を伝えればいいのか、孤独が恐怖に変わっていった。
――坂田助教授を訪ねてみようかしら?
「いつでも連絡をくれればいいからね」
 と坂田が言ってくれたのを思い出した。
「もしもし、私、河村です」
 電話とはいえ、記憶を失っている自分の名前を言うのは抵抗があった。
「ああ、さっそく連絡をくれたんだね? 嬉しいよ。退院して一人になってどうだい? やっぱり何も思い出せないかな?」
 退院してから坂田は部屋の前まで送ってきてはくれたが、彼ははづきの部屋に上がろうとはしなかった。
「私は、この部屋に入ったことはないからね」
 というのが理由だった。
 記憶を失っているのをいいことに、今まで上がったことのない部屋に上がるということもできたであろう。入ったことがないということを隠していればいいだけのことだからである。
 しかし、それをしなかったということは、一つには、
――はづきが部屋に入った瞬間、記憶を取り戻すかも知れない――
 という考えがあったからである。
 記憶が戻って来れば、ウソもバレてしまう。しようとしていることが男として恥ずべき浅ましいことだというのを分かっている坂田だけに、余計に記憶が戻る可能性を考えたのかも知れない。限りなく可能性は低いとしても、リスクであることには変わりない。そう思うと、ウソまでつく理由がないということなのだろう。
 もう一つは、はづきのことを考えてのことだろう。
 一人で部屋にいることで、孤独を感じる。もし、はづきが言い知れぬ不安に駆られたとすれば、そこから急に記憶が戻ってくるかも知れないと思ったからだ。ある意味では荒治療になるのだろうが、自然であることに違いはない。
――はづきもいずれは一人になる時間が訪れる――
 早い方がいいのか、遅い方がいいのか分からないが、一人で部屋にいるという時間は必要である。気を利かせたと言えばいいのか。ただ、それが諸刃の剣であることも分かっていた。だからこそ、
「いつでも連絡してくれていいんだからね」
 と言っておいたのだ。
 一度でも一人になる時間があり、孤独に苛まれたとすれば、それがどんなに短い時間であっても、本人にとっては辛いことである。はづきの性格からすれば、なるべく連絡をしないように我慢しようと思うに違いないが、それでも連絡をくれたということは、実際に孤独を感じ、それでも助けを求めたいと思った時であろう。
――その時こそ、自分が力を貸す時だ――
 と、坂田は感じていた。
 そんな時、はづきからさっそく連絡があった。坂田の気持ちとしては複雑だった。
――早めに連絡をくれたというのは、頼ってくれているということで嬉しい限りではあるが、自分が彼女を一人にしたために、やはり孤独に苛まれる道を選ばせてしまったということに対して罪悪感を感じる――
 と、思っていたのだ。
「あの、よろしければ私のお部屋に来ていただけませんか?」
 まだ夕方だったので、今から行けば日没までには行けるだろう。日が暮れてから、彼女を一人にさせたくないという思いが、坂田の頭を過ぎったのだ。
「分かりました。今から伺います」
 大学から彼女の部屋までは十五分ほどである。通学には問題のない距離だが、あまり大学に近いと学生アパートの雰囲気が強く、他の部屋の住民も同じ大学に通っている人ということになる。そういう意味では彼女の住んでいるマンションは結構大きく、オートロックもついていて、学生が住むには少し贅沢ではないかと思うほどだったが、それだけに孤独というのが裏側に潜んでいて、敢えて彼女がこの部屋を選んだということは、ひょっとすると、記憶を失う前の彼女は、さほど孤独を怖いと感じないタイプだったのかも知れない。
――僕の考えが少し違っているのかも知れないな――
 と、彼女の部屋に向かいながら考えていたが、部屋のインターホンを押して、彼女の声を聞いた時、あまり余計なことを考える必要はないのかも知れないと感じていた。
「はい、どうぞ。お入りください」
 その声は落ち着き払って聞こえ、最初はその落ち着きを、
――恐怖から来るものだ――
 と思ったが、部屋の扉を開けた時に見せた彼女の顔を見た時、
――やっぱり落ち着いている――
 と感じた。
作品名:矛盾への浄化 作家名:森本晃次