矛盾への浄化
と訊ねた時、坂田の手に持たれた花束に、視線が釘付けになった理由も分からなくもない。きっとはづきを見舞う人、特に男性がいるとは思えなかったからだろう。もし、そんな人がいるなら、昨日のうちに誰か一人でも来ているはずだと思ったからだ。何よりも家族が誰も来ていないということは、記憶を失ったはづき自身が分からないのであれば、病院側も連絡の取りようがないというものだ。
ただ、実際には彼女の身元はすぐに分かった。事故に遭った時、持っていたカバンから学生証が見つかったからだ。そうでなければ、病院側が彼女の名前を分かるはずもない。少なくとも昨日のうちに家族には連絡が行っているはずだからである。
家族以外だと微妙である。
もし、彼氏がいたとして、家族が彼氏の存在を知っていたとしても、まず最初に状況を知るために、家族だけで面会しようと思うのではないだろうか。
看護婦たちがそんなことを分からないとは思えない。数日経って、誰も見舞いに来ないのであれば、看護婦たちの考えも分からなくもないが、翌日にはすでに誰も来ないと考えている。
ということは、彼女たちの中で、はづきに対して、
――この人に彼氏はいない――
と思わせる何かがあったに違いない。
確かに記憶を失っていれば、挙動不審にもなるだろうが、だからと言って普通なら聞かれては困るような話を平気でできるというのは、おかしなことであった。
それでも、さすがにナースステーションに声を掛けずに面会するというのはルール違反になる。声を掛けた時に露骨な視線を感じたが、それも坂田の意識過剰なところが招いたことなのかも知れない。
だが、その理由もすぐに分かることになる。はづきは挙動不審というよりも、言動に問題があった。元々坂田ははづきから、
「最近になってからのことなんですけど、誰かと知り合った時、その人がどんな人の生まれ変わりなのかが分かるような気がしてきたんです」
という話を聞かされていたので、ビックリはしなかったが、どうやらはづきは交通事故のショックから、不思議なことを口走る女性だという話が、ナースの間で広がっていたようだった。
そこに至るまでに、はづきの記憶が徐々に薄れてきていたことを、他の人は知らない。いきなり交通事故に遭って、記憶がなくなってしまったのだと思っているのだろう。誰から聞いたわけでもないが、先ほどの虚空を見つめるはづきの目を見れば、記憶を失ってしまったことに間違いないという思いが確証に変わったのだ。
目が泳いでいるとはよく言ったもので、最初は天井を見ていたはずの顔が、途中から窓の外を見ているということに気付かなかったのは、じっと視線を逸らさずに見つめていたことで、見つめる感覚がマヒしてしまったからなのかも知れない。それだけ真剣に見つめてしまうほど、その時のはづきの様子は変だったに違いない。
坂田が病院に来て見るはづきは、ずっと一緒にいた人からすれば、だいぶ正常に戻りつつある姿に見えているのに、事故後初めて見るはづきに、坂田は最初から戸惑っていたのだ。
「こんにちは」
声を掛けると、はづきはキョトンとした表情で、坂田を見つめる。やはり坂田のことが分からないようだ。それでも、すぐに二コリと微笑んだ表情は、今まで見せたことのないほどあどけないもので、思わず、
――従順だ――
と思いこんでしまったことが、いずれはづきを研究することになる最初のきっかけだったことになろうとは、その時は思ってもみなかった。
「はづきさん?」
と名前を聞いても、まだキョトンとしている。昨日までなら、
「坂田さん」
と、返事を返してくれる光景が思い浮かんでいたのだが、最初に声を掛けた時、彼女から自分の名前を呼ばれる雰囲気をまったく感じなかった。まるで別人になったかのようだった。
これ以上話をしても、自分が期待しているような表情をしてくれることはないと思いながらも、少しずつ話をしてみる。
「そうなんですか? 大学の助教授なんですね」
「ええ、あなたは、私のゼミの生徒なんですよ」
考えてみれば、坂田は彼女のことをほとんど知らなかった。
今まで女性とほとんど付き合ったことのない教授にとって、はづきが眩しく見えたのも事実だ。三十歳になるまで彼女がいなかったのは、研究熱心だったというよりも、どちらかというと人間嫌いなところがあったからだった。人間嫌いなところがあるから、研究に没頭していたと言ってもいい。なぜ自分が人間嫌いなのか、あまり考えてみたこともなかった。
坂田は神経質な性格で、まわりに人を寄せ付けることはなかった。神経質な性格で、しかも潔癖症である。正義について考えたことはないが、無意識に考えていたようで、その正義に種類があるわけではなく、一つに凝り固まってしまっていた。そんな融通の利かない性格は人から好かれるわけもなく、人が寄ってくるはずもない。それでいいと思っている坂田は、
「僕は僕なんだ」
と、自分の殻に閉じこもってしまう。
そんな坂田が、「隠れ家」のような店を求めていたのは、殻に閉じこもった自分を開放できる場所がほしかったからだ。今までにいくつかの店に立ち寄ってみたが、自分が納得できるような店はなかなか見つからなかった。坂田が求めるような店にはたいてい常連客というものがいて、その人たちがお互いに孤立したような雰囲気の店というのはなかなか見つからない。常連同士仲がいいのは悪いことではないが、会話をしているのを聞いていて、いつもどこかに違和感を感じていた。それは、いつも同じような話にしかならないからだ。別にしたい会話があるわけではなく、形式的に会話をしているだけなので、いつも同じ会話にしかならない。
――それなら、会話なんかしなければいいんだ――
と思ったが、そう思ってしまうと、その店には次から来ようとは思わなくなる。「隠れ家」にできそうな店では、常連であっても、余裕を持って自分の世界を堪能でき、相手から話しかけてみたいというオーラを自分が醸し出せるような店を探したかった。自分から出すオーラではあるが、意識していないところがポイントである。それだけに、そんな店がなかなかあるとは思えなかった。
探している時はなかなか見つからないが、忘れた頃に、
――こんな店なんだ――
と思えるようなところが得てして見つかるものだ。
それは偶然でありながら、ただの偶然ではない。もし引き寄せたとするならば、
「誰かが生まれたその時間には、必ず誰かが死んでいることになるんですよ。その数っていつも一緒なんですかね?」
と言っていた人がきっかけになったのかも知れない。
今さらどんな人だったのかというのを覚えているわけではないが、日が経つにつれてその人のことが気に掛かっていた。
最初は彼のセリフだけが気になっていたのだが、今から思えば、
――もう少し、その人のことを気にしておけばよかった――
と思った。
元々人の顔を覚えるのが苦手だったこともあり、もし、今その人がスナック「メモリー」に顔を出して、隣に座ったとしても、坂田には分かりっこないと思われた。
――きっかけというのは、そういうものなのかも知れないな――