小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

矛盾への浄化

INDEX|2ページ/35ページ|

次のページ前のページ
 

「ええ、そうなんです。私はどこから来て、今どうしてここにいるのかということすら、そのうちに分からなくなりそうに思うんです」
 坂田は、彼女の話を聞きながら、自分が不思議な世界の入り口に立っているような錯覚に陥っていた。
――今までにこんな女性に出会ったことはない――
 坂田はそう思いながら、いつの間にか彼女のペースに巻き込まれているのを感じていた。自分が人の顔を覚えられないだけではなく、忘れっぽい性格であることを今さらながらに思い知らされたのは、この時だったのかも知れない。
 彼女は名前を河村はづきと言った。確かに自分のゼミの生徒に河村はづきという名前の生徒がいることを意識はしていた。人の顔を覚えられないということは、名前と顔が一致しないということでもあるのだが、名前ばかりを先に覚えてしまったことで、余計に名前と顔が一致しない状況に陥りやすくなっていたようだ。
 坂田は、すぐに不安を感じてしまう方で、何かを考え始めると、得てして悪い方に考えてしまうことが多かった。その傾向は年齢を重ねるごとに深まっていくような気がする。
――先が見えているような気がしているのかな?
 不安に感じるというのは、先が見えないことに対して感じることだと思っていたが、先が見えないことと、見えてしまったこととが両極端なのではないかと思うようになった。しかも、その二つは背中合わせになっているように思えて、得体の知れない思いが、頭を巡っていたのだ。
 覚えられないという性格は、先が見えていることでも、見えていないような錯覚をもたらすことになると感じていた。もう一つ言えば、
――必要以上に考えすぎてしまうことが、余計なことを考えさせ、頭に混乱をもたらしている――
 その思いが坂田を、瞑想させることになり、心理学を専攻することに結びついていた。
 やってみれば、研究はやりがいがあった。自分が求めているものが見つかりそうな気がしていたが、なかなか見えてこない。
 研究すればするほど奥が深いと思えることほど、やりがいは増すものである。コツコツと自分のペースで研究ができるのも、ありがたかった。
 今年三十歳になる坂田は、気が付けば研究だけに熱中していて、人との関わりを自分で否定する毎日を過ごしていた。悪いことだとは思っていないが、たまに急に寂しさがこみ上げてくることがあった。
――隠れ家のような常連になれる店があればいいな――
 と思いながら、なかなかそんな店は見つからなかった。自分の考えを少し変えれば、隠れ家になるような店はいつでも見つかるのだろうが、見つからなかったということは、それだけ坂田にこだわりのようなものがあったに違いない。
 坂田が隠れ家のようなスナック常連になるきっかけになったのは、はづきを連れていってからだった。そのスナックは名前を「メモリー」と言った。ありきたりの名前にも思えたが、
――誰もが思いつきそうで誰もつけない名前を付けたということなんだろうか?
 と勝手に想像していた。確かにインパクトには欠けるかも知れないが、覚えやすい名前である。
「喫茶店でもいいような名前ですね」
 と店の女の子に訊ねると、
「昼間は喫茶店もしているようですよ」
 という答えが返ってきた。
 なるほど、喫茶店としても、隠れ家として利用できそうだった。
「今度、昼間も来てみたいな」
「ぜひに」
 軽い会話の中で、昼の雰囲気を想像してみたが、隠れ家としてのイメージは湧くが、喫茶店というイメージとは少し違っていた。夜の店も、昼の喫茶店の雰囲気を知っている人から見れば、想像できるものではないに違いない。
 はづきと何度かこの店に一緒に来たが、はづきにこの店が昼は喫茶店をやっているという話をすると、
「私は何度か昼間も来たことがあるんですよ」
 と答えた。
 坂田にとっては意外な答えだった。
「もちろん、僕と最初に来てからのことだよね?」
「ええ、そうですよ。昼間、このあたりにくることが時々あったんですが、坂田さんとご一緒するまで、この店を知らなかったんです。でも、ある日前を通りかかったら、看板が出ていたので、昼間もやっていることをその時知ったんですよ」
 と答えた。
 はづきは、最初こそ坂田のことを、
「坂田助教授」
 と呼んでいたが、二回目に「メモリー」に一緒に来た時くらいから、
「坂田さん」
 と呼ぶようになっていた。
 坂田は二人の距離が一気に縮まったような気がしていたが、はづきはなかなか自分のことを話そうとしない。聞くに忍びないと思った坂田は何も聞かなかったが、その時徐々にはづきは自分のことを忘れていっているようだったのだ。
「はづきが交通事故に遭って入院した」
 という話を坂田が聞いたのは、事故に遭った次の日のことだった。命に別状はないということだったが、坂田は講義が終わってすぐに、病院に駆け付けた。病室には一人はづきが寝ていて、じっと天井を見つめていた。部屋は二人部屋だったが、もう一人はちょうど診察に出ていたようで、部屋にいたのははづき一人だった。
 坂田は、部屋に入ろうとして、思いとどまった。天井を見つめているはづきの顔は、横から見ていても、どこか異様で、ただ、
――この表情、どこかで見たことがある――
 と感じたのだが、それがはづきのものではないことに、その時は気付かなかった。どこかで見たことがあるというのは、その人の顔ではなく、表情や見つめる目の焦点など、様子に関わることだったのだ。
 誰かのお見舞いで病院を訪れるのは久しぶりだった。薬品の臭いが鼻につき、思わず吐き気を催してしまいそうだった。
 しばらく表からはづきを見ていたが、まったく気付く気配のない様子に、違和感を感じていると、最初は天井を見つめていた顔がいつの間にか窓の外を見ていることに気が付いた。顔を見ていたはずなのに、どうしてすぐに気付かなかったのか不思議だった。ただ、表を見つめているということは、こちらから顔は見えないはずなのに、どんな表情をしているのか分かってくるような気がしていることで、すぐに気付かなかったのではないだろうか。
 はづきの目は、完全に虚空を見つめていた。
――本当に記憶を失くしてしまったのかも知れない――
 最近、徐々に記憶が薄れて行っているという話を聞いたばかりなので、完全に記憶を失ったと言われたとしても、さほどビックリはしない。むしろ、さっぱりとなくなったと言われた方が、スッキリするくらいである。
 坂田の想像は当たっていた。
「彼女、完全に記憶を失っているらしいわよ」
 聞き耳を立てていたわけではないのに、聞こえてきた看護婦の話に、彼女というのがはづきだということはすぐに分かった。まるで坂田に聞こえるように話しているかのように感じたのは気のせいなのかも知れないが、看護婦のほとんどが、はづきに知り合いはいないと思っていたようで、無神経な会話も、誰に聞かれても他人事だと思っていたからなのかも知れない。
 坂田がナースステーションで、
「河村はづきさんの病室はどちらですか?」
作品名:矛盾への浄化 作家名:森本晃次