矛盾への浄化
榎本もそのことを分かっていた。分かっていることで、余計に自分が自由に動けることを確信し、過去と未来を行ったり来たりしやすくなったことを感じた。はづきのことは真奈美に任せておけばいいのだ。安心感がこみ上げてきた。
しかし、本当にそれでいいのだろうか?
何のために、わざわざタイムマシンを使ってまで、この時代にやってきたのか、榎本は当初の目的を忘れかけているような気がした。あまりいい傾向ではないのは分かっている。そういう意味では、真奈美の出現は、榎本にとって、決していいことのはずがないのではないだろうか。
それでも、未来が変わっていないことを気にしておかないと、自分たちが未来から来た人間であるということを忘れてしまいそうになる。いくら過去の世界がいいと言っても、ずっとこのまま過去の世界にいるわけにはいかない。どこかで未来に戻ることになるだろう。
それは、自分の意志に関わらずであり、もしその時にこちらの世界に未練を残していたとすれば、未来に戻ってからの自分たちは文字通り、過去を背負って生きることになるのだろう。
だが、未来に戻ってから、自分たちの記憶は残ったままなのだろうか?
記憶が残っていれば、それなりに辛い思いが待っていることは分かりきっている。しかし、だからと言って、このまま過去の記憶が消滅してしまうことを望んでなどいないのだ。
榎本は、未来に帰るのをよそうと思うようになっていた。今さら未来に帰って、変わっていない未来を見ても、未練などないはずの未来に、未練を残してきたのではないかという思いを抱くだけだからである。実際に、どうして過去に戻ってきたのかという思いを次第に忘れかけていたが、それならそれでいいと思うようになってきた。
だが、はづきは過去に戻ってきて、よかったのかも知れない。真奈美という母親のように慕える人ができたのは、記憶を失ったことを補って余りあることである。いや、下手に記憶を持っている方が不幸な場合だってあるのだ。はづきは、自分の失くした記憶を思い出したいとは思わない。きっと、ロクでもない記憶だったに違いない。
榎本は、坂田のメモ帳から、はづきにわざと記憶喪失になるような暗示を植え付け、暗示があるたびに忘れていくという狙いを知っていた。未来では坂田教授が記憶喪失になっているので、その後どうなるのか、タイムマシンを使えば分かるはずなのに、どうしても榎本はそれ以降の未来に行くことができないでいた。
行こうと思えば行けるのかも知れないが、見たくないものを見るために、タイムマシンを使いたくないと思うのは、
――もし、見てしまえば、はづきのいる過去に戻ってくることができなくなるのかも知れない――
ということだった。
榎本は、タイムマシンを使うことを封印していた。隠し場所は最初から隠している場所に置いておけば、見つかることもない。過去の人間には見えないような装飾を施す発明が、タイムマシンには備えられていた。もっともその発明は、タイムマシンが実用化されるようになった時には、オプションとしてではなく、最初から装備されているものだった。それだけ、タイムマシンを使う上で、他の時代の人間に対しての気配りが込められていたのだ。
榎本がタイムマシンを使わなくなってしばらくして、無事にその場所にあるかどうか確認にやってきた時のことである。一月ぶりに見るタイムマシンは、頻繁に使っていた頃には感じなかったほど、大きなものであることに、今さらながら、気が付いた。
――こんなに影が長かったっけ――
というのが、第一印象だった。
以前頻繁に使っていた頃は、ゆっくりと外見を見ることなどなかったので、影の存在すら意識していなかった。
――ひょっとすると影などなかったのかも知れない――
そう思うと、以前に未来で聞いた話を思い出した。
「タイムマシンはパラドックスを支配しないと、機能しない機械なので、どこかに矛盾を感じさせることがなければ、成立しないのさ」
誰から聞いた話だったか覚えていないが、確かにそんな話を聞かされた。
その話を思い出した時、
――タイムマシンに影がないことがパラドックスだったのではないか?
というのを思い出した。
その時榎本が感じたのは、
――俺も何か記憶が欠落している部分があるのではないか?
はづきも、坂田教授も記憶喪失に陥っている。ここで自分だけ記憶が完全だというのも、考えてみれば、逆に不思議ではないか。つまりは、はづきにしても坂田教授にしても、
――記憶喪失は、誰かの手によって意識的にさせられてしまったものではないか?
という思いが頭をよぎった。目に見えない組織によって記憶喪失にさせられたと思う方が、二人が偶然に、それぞれのパターンで記憶喪失になったというのは、あまりにも出来過ぎていることである。感覚がマヒしていた榎本には、その疑問が浮かんでこなかった。はづきのことを考えているつもりで、実際には自分のことだけで精一杯だったのかも知れない。
榎本は、自分が未来に帰りたいと思うのは、未来が変わっていないかどうかの確認だけではないような気がした。自分では意識をしていなかったが、未来に戻ることで失われた記憶の何かを思い出せるのではないかという思いがあったのかも知れない。考えてみれば、未来にはいつも一人で戻っていた。必要以上にはづきに気を遣いながらである。最初ははづきへの遠慮のように思っていたがそうではない。自分も記憶喪失ではないかという無意識な思いを知られたくないという思いが意識の裏にはあったのかも知れない。
過去と未来を繋ぐトンネルは、次第に短くなって行ったような気がしていた。最初に過去に戻ってきた時は、まるで、地球の果てまで来たような気がしたものだった。タイムマシンに乗るのは初めてではなかったが、片道切符は初めてだったからだ。過去に着いてから落ち着くまでの期間、まだタイムトラベルが続いているような気がしていたのだった。
――タイムトラベルの終わりっていつなんだろう?
目的地に着いてタイムマシンから離れた瞬間が終わりだというのであれば、過去に戻ったという意識が本当にあるのかどうか疑わしい中で、自分の居場所を見つけることができるのであろうか?
過去に戻るというのは、時間の瞬間移動なので、身体に危害がないか大きな問題だった。タイムマシンの研究が遅れたのはパラドクスの問題もあったが、切実という意味では、
――肉体がタイムトラベルに耐えられるかどうか――
という問題も大きかったに違いない。
それらもすべて網羅されて開発されたタイムマシンだが、途中までが時間が掛かったわりに、何かをきっかけに急に開発が軌道に乗り、あれよあれよという間に、実用化されるようになったという。ただ、未来でも実際に使用できるのは一部の限られた人間だけだ。研究者であることが必要で、もちろんのこと、タイムマシンにも「運転免許」が必要だったのだ。