矛盾への浄化
と思ったことだ。
はづきが記憶を失ったことに、榎本はその時、余計な意識は持っていなかった。
しかし、考えてみれば、ケガの功名でもあった。
未来からやってきたはづきにはこの時代の「戸籍」はない。正体不明の女性が交通事故に遭った。記憶があれば、どうしても、そのことを言及されるに違いない。確かに彼女が誰なのか、必死に探すだろうが、見つかるわけはないのだ。
はづきの記憶は完全になくなっていた。それはまるで、
「誰かの手によるものではないか」
と言われても不思議ではないほど、綺麗に消えていた。
まるで、切れ味鋭い刃物で削り取った石を、やすりで研ぎ澄まされたような感じであった。断面図も芸術のように鮮やかで、ここまで見事に記憶がないなど、今まで知っている記憶喪失の人には見られない状況だった。
榎本もこの世界に戸籍はなかったが、何とかなった。はづきが、記憶のないはづきだったが、彼女の特殊能力で、
――今この瞬間に亡くなった人――
というのが分かるようで、その人になり替われば、この世界で自分の戸籍を作ることができる。
それは未来の世界で可能となった。
――戸籍の売買――
を応用したものだった。
ノウハウさえあれば、やり方は未来から持ってきたマシンを元にすれば簡単にできることだった。
ただ、
「そんなことはしてはいけない」
という団体とのし烈な争いが未来に待っているのは事実なのだが、
――戸籍の移動を作為的に行った史上初の人間――
それが榎本だったのだ。
――はづきの能力がこんなところで活かされるなんて――
と、思ったのも事実。榎本はこの世界で、「別人」となって生まれ変わったのだ。
戸籍を移動したと言っても、本人は死んでしまったのだから、本人を知っている人は、本人の戸籍はとっくに消滅していると思いこんでいる。そういう意味ではしばらくの間、榎本の存在はこの世界で確立されていたのである。
しかし、そういつまでも欺きとおせるものではない。それまでに未来に戻る算段をしなければいけないだけだった。榎本は自分が何をすべきなのか、早く見切る必要はあった。幸か不幸か榎本は、過去と未来を自由に行き来できた。まずは、記憶を失ったはづきのことを気にかけながら、未来の教授の言った、
――はづきが「失敗作だ」――
という言葉の意味を探る必要があったのだ。
榎本は、教授に依頼主が何を依頼したのかということが気になって仕方がなかった。未来にいる時は、
――教授のすることだから、俺がいろいろ言うわけにはいかない――
と思っていたが、それも教授と同じ時間を過ごしていたからだ。
元々榎本はタイムマシンの存在が嫌いだった。確かにタイムマシンに対してのいろいろな疑念が解消されたことで、タイムマシンの研究が公に許されるようになった。それまでは倫理の問題、物理的な問題として、パラドックスが解決されない限り、タイムマシンの研究は禁止されていた。
タイムマシンの研究には莫大な費用が掛かる。とても民間の会社では無理なことだった。ましてや、大学の規模だけでできるはずもない。そこには秘密組織が、国家ぐるみのものがなければ、研究に取りかかることさえできなかったのだ。
研究すること自体を国家が禁止していた。しかも、それは一国家だけの問題ではなく、国連でも禁止事項の一つになっていた。国際法でも禁止条項が盛り込まれていたくらいである。
ただ、そんな状況でも水面下で研究されているのが世の常。まるで映画の題材にでもなりそうな発想だが、榎本はそんな時代背景をしっかりと把握していた。
水面下で続けられているという噂は、そこからともなく伝わるもので、榎本は半信半疑だったが、実際に解禁になると、結構早い段階で、タイムマシンの試作機が出来上がったと新聞に書かれていた。
――やはり、秘密組織の噂は本当だったんだ――
と思ったが、それほど興味を未来では持っていなかった。
しかし、過去にやってくると、
――そういえば、このタイムマシンを秘密で開発している組織があったんだよな――
とふと感じたことをきっかけに、それから結構気になり始めて。頭の中で次第に思いが深くなっていった。その思いは消えることなく、榎本の頭の中にこびりついていくのだった。
はづきは、榎本が何を考えているのか分からないと思う時が時々あった。交通事故で記憶を失ったはづきを榎本が引き取って、密かに二人だけの生活をしていた。
まわりの人は、それほど二人のことを気にしない。元々この時代の人は、
――隣は何をする人ぞ――
ということで、他の人のことを気にする人などさほどいなかった。自分たちだけのことで精一杯というのがこの世界の人の生き方で、榎本から見れば、
――潔い――
と見えていたが、中にはその気もないのに、
「私は、まわりのことを気にしている人なのよ」
と言わんばかりに、まるで親切の押し売りのような人もいたりして、あまり気持ちのいいものではない。それでも自分が近づかなければいいだけなのだが、そんな人に限って、変なところでおせっかいだったりする。
最初は、
――鬱陶しい人だな――
と思っていた。
その人は中年のおばさんで、人懐っこい人なのだが、よく観察してみると、彼女には友達はいないようだ。
この世界の人は、基本的に人に関わることは嫌だと思う人ばかりだった。それでも少々の社交辞令ならまだいいのだが、彼女の場合はさらにしつこいところがある。鬱陶しいというのは、そういうところがあるからだ。
そんな彼女が興味を持ったのは、榎本にではなく、はづきにだった。
「私も気にして見ていますからね」
と言ってくれたが、やはり最初は信じられなかった。
なぜなら、榎本が自分で考えても、自分もはづきも、この世界ではよそ者。いかにも、
――怪しい人たち――
と言われても仕方がない。
それなのに、そんな自分たちにわざわざ構おうというのだ。よほど暇で、暇つぶしにしたいのか、それとも変な意味で興味があって、探求心から、二人を探ろうとしているのか、どちらにしても、気を許せる相手ではないと思えたのだ。
しかし、一緒にいると情が移ってくるとでもいうのか、次第に彼女のことが信用できるようになってきた。
彼女は名前を真奈美という。年齢としては三十歳代後半、いやもう四十歳代に突入しているだろうか。興味津々なところがあるわりに、急に落ち着いた顔になったかと思うと、目が座っているように見え、
――この人になら、少々のことなら任さられるかな?
という風に見えてきた。
それは、年齢からくる落ち着きだけではなく、何か話していない中に、彼女の真髄に近づけるものがあるのではないかと思えてきた。普段の彼女は何も隠すところがないと思うほど、あけっぴろげに話してくれる。しかし、落ち着いた時に見せる顔を見ると、
――この人にも、誰にも言えない心の奥にこびりついた何かがあるんだ――
と感じさせられたのだ。
榎本は、真奈美に対して、少しずつ信頼感を持てるようになってきている自分に気付いていた。本当は聞いてみたい彼女の中にある、
――人に言えない何か――
を抱えていると知った時、