矛盾への浄化
一つははづきの記憶を自分の記憶で埋めてしまいたいという征服感に満ちた考えと、さらには、はづきがなるべく年を取らないようにしたいという思いとがあった。物理的に年を取らないのは無理だとしても、自分がまわりから遮断して一人で抱えていくことで、余計な心配や気苦労冴え与えなければ、年を取ることはないという考えであった。はづきに対して従順な女性を作り上げようという考えは、その当初の目的からの派生であったのだが、そのことをどこまで自分に言い聞かせるかということも、坂田の中では大きな問題だったのだ。はづきの中に過去と未来の記憶が存在し、その中で幾人もの人たちの暗躍が渦巻いている。はづきは渦中の人ではあったが、あくまでも被害者。榎本や坂田。それぞれの時代の自分たちがいかに暗躍するかが、今後の運命に大きな影響を与えるのだ。
――先に動くのは、一体誰なのだろう?
誰もがそう思い、自分ではないようにしようと、牽制していたのだった……。
第三章 矛盾の副作用
「先に動くと、そこから隙ができて、却って身動きが取れなくなる」
という話を、未来の坂田も榎本も聞いたことがあった。
しかも、その話をしていたのは、お互いに知り合ってすぐだったこともあって覚えているのだ。その話がきっかけで二人の仲が深まって行ったというのも事実であり、今から思えば皮肉なものであった。
未来においての榎本と坂田では結構話が合っていた。お互いに基本的なところでは、
――混じり合うことのない平行線――
を描いていたのだが、話が噛み合わなかったわけではない。意見が違っていても話が噛み合うのは、それぞれに新鮮な風を吹き込むことで、いい傾向にあると言っても過言ではないだろう。
未来においての二人の距離が離れていったのは、教授の方からだった。
元々二人は、
――人とは一定の距離を置くものだ――
という考えを持っていた。お互いにそのことを話すことはなかったが、一緒にいるうちに、相手も同じことを考えていることが分かってくるというものだった。お互いに学者肌なところがあり、それぞれに牽制し合っているのを感じていたのは、本人たちよりも、まわりの方が敏感だったに違いない。
そういう意味でも、二人には誰も近づいてこようとはしなかった。確かに教授と学生という関係では、まったく遠ざかっているわけにもいかないだろうが、学生のほとんどは、最初から割り切って、教授と付き合っていた。
榎本も、同じだったが、他の学生のように近づかないというわけにもいかない。榎本ほど微妙で中途半端な距離を取っている人はいなかっただろう。
意識しなくても、距離が中途半端というだけで、気持ち悪いものだ。吐き気を催すくらいに気持ち悪くなったり、急に頭痛が襲ってきたりした。その原因が教授にあるとは思わなかった榎本は、その時、自分の記憶が薄れてくるのを感じていた。
だが、記憶がなくなることはなかった。薄れて行っていると感じたのは、気のせいだったのかも知れないと思うほど、薄れが消えてくると、マヒしていた感覚が戻ってくることで、またしても、気持ち悪さが戻ってくる。
教授との関係が変わらない限り、このまま同じことを繰り返してしまうと感じた榎本は、どうしていいのか分からないまま、教授を気にして見ているしかなかった。見ているうちに教授は自分が思っているよりも、さらに危険な人間であることに気付いてきたのだ。
そこに現れたのがはづきだった。
――一体どこから来て、教授の実験台になったのだろう?
さすがに人間扱いされていないほど、酷い扱いではなかったが、
――今の世の中にこんなことがありえるのか?
と思うほど、はづきに対して露骨なまでの同情を感じていた。
だが、榎本にはどうすることもできない。
坂田教授が何をしようとしているのか、ハッキリしたことも分からない。助手である自分に内緒で何かをする教授はそれまでになかったことだ。つまりは、それまで何とか切り抜けてきた均衡を、教授の方から破っていたのだ。その時のような中途半端な距離ではどうにもならない。その時は榎本よりも、坂田教授の方が、苦しかったに違いない。
坂田教授は、二人がいなくなったことに気付いていた。
いや、いなくなるのではないかという予感めいたものがあった。今までの坂田教授であれば、何としてでも妨害を企てたかも知れない。しかし、今回だけは、なぜか気力が湧かなかった。
――はづきのいない世界を覗いてみたい――
と、感じていたようだが、それが本心からなのか分からない。なぜなら二人が過去に戻ってすぐに、坂田教授は意識不明に陥り、しばらく動けなかった。
命に別状はなく、一旦回復に向かうと、思ったよりも回復が早く、退院できるようになるまで、半年とかからなかった。
だが、その間の半年が長かったのか短かったのか、当の本人には分からない。意識が戻ってからというのは、記憶のほとんどは消えていた。坂田教授を知る人の間では、
「あれほど意識が詰まりすぎるくらいだった記憶なので、一か所が崩れると、音を立てて雪崩落ちるようなものだったのかも知れない」
という意見がもっぱらだった。
飽和状態というのは、そういうことを言うのだろう。飽和状態という意味では、榎本も時々自分の中で飽和状態になっていることを感じることがあった。
――空気が濃すぎるとでもいうんだろうか?
空気が薄い時と違って、濃すぎる時も、呼吸困難に陥ってしまう。同じ結果になる場合でも、原因がまったく正反対であることも珍しくはない中で、飽和状態にその思いを感じたのは、息苦しさが感覚をマヒさせることと密接に関係があることに気付いたからだった。
ただ、そのことにいち早く気付いていたのは、坂田教授だった。
心理学を研究する中で、
――精神的な息苦しさ――
というのを避けて通ることができないものだという意識があった。精神的な息苦しさというのは、時間を感じさせないほど感覚をマヒさせるもので、背中や額から、無意識のうちに汗がしたたり落ちるなどということも、決して嘘ではないようだ。
それは心理学を研究している人間に限ったわけではなく、誰もが感じることであり、そのことに疑問を持つか持たないか、それが研究している人間かどうかの違いのように思えるのだった。
坂田教授の記憶は意識が戻った時、すでになくなっていた。以前にも記憶喪失に陥ったことがあっても、少しすると記憶が戻ったこともあって、
「今回も体調が回復に向かうにつれて、記憶も戻ってくるだろう」
というのが、大半の意見だった。
さすがに教授としての復帰にはまだまだ時間が掛かるようだった。だが、大学側は教授を除籍にする予定はない。むしろ教授の帰参を待ち望んでいるようだった。
「彼にはやってもらわなければいけない研究がある」
というのが大学側の意見で一致していた。ただ、一つ気がかりなのは、その研究に必要だと思われた榎本助手とはづきの行方が分からなくなっていることだった。