矛盾への浄化
第一章 記憶の喪失
「誰かが生まれたその時間には、必ず誰かが死んでいることになるんですよ。その数っていつも一緒なんですかね?」
そんなことを話している人を見かけたことがあった。あれは最近一人で入ったスナックで見かけた人だった。あまりアルコールが強くない坂田助教授が、初めて一人で入ったスナックだった。その少し前に助教授になり、まわりの人がお祝いをしてくれたが、一人ゆっくりと祝いたいという気持ちもあり、隠れ家のような店で一人祝賀の気分に浸りたいという思いだった。
一度落ち着きたいという思いがどこから来るのか分からなかったが、何か一抹の寂しさを感じていたのだった。
そこで出会った人が話していたのだが、彼は誰に話すともなく話をしていたので、坂田助教授も聞いていないふりをして、耳を傾けていた。その人は決して自分から人に話しかけようとはしなかった。
と言っても、その日スナックにいたのは二人だけで、女の子が二人に話をさせようという努力があって、初めて二人が相対することになった。
話をしてみれば、お互いに気さくな感じで、
「初めて会ったような気がしませんな」
と、坂田助教授が言うと、相手は一瞬ドキッとした素振りを見せたが、普段あまり呑まない坂田は、そのことに気付かなかった。
名前を確認したわけではない。初めてきた店で、これからもまた来ようとも思わなかったので、その日限りの出会いだと思っていたので、それからしばらく思い出すこともなかった。
だが、そのスナックにはそれから何度か行くようになり、常連にもなった。ただ、常連になるきっかけには、その時出会った男性が関わっているわけではなかった。その店を常連にするようになったのは、本当に偶然だったのだ。
ある日、大学から駅までの道のりを歩いている時、後ろから声を掛けてきた女の子がいて、よく見るとその娘とは、どこかで会ったことがあるような気がしていた。そのことを彼女に問うと、
「目立たないかも知れませんが、私は先生のゼミを選択しているんですよ」
助教授になって、やっと持てたゼミの授業。本当ならゼミ生の顔と名前くらい覚えておかなければいけないのに、なぜか覚えられなかった。坂田の専攻は心理学で、その中でも、人間が持っている意識や記憶というものについて研究していた。その二つがいかにどこで結びついていることで、どのような結果をもたらすかなどの研究であった。
坂田が彼女の顔を覚えていないというのは、印象が浅かったからではない。それなのになぜか顔だけを覚えていなかったのだ。
――顔と雰囲気が一致しないからかな?
彼女のことを思い出そうとすると、授業中のイメージがいつも違ったような気がする。まわりが暗く感じられるほど目立って見えていたこともあれば、まわりの雰囲気に飲まれるかのように、印象がまったく感じられないこともあった。
――本人は、意識していないんだろうな――
と坂田は感じていたが、彼女に声を掛けられた時は、彼女がそれなりに自分の気持ちに正直になっているのだと思った。
――では、彼女の気持ちとはどこにあるのか?
坂田は心理学を研究している割には、女心には疎いところがあると思っている。女心というのは男性から見て神秘的なものであり、場合によっては、侵してはならない神聖なものだという認識を持っている。彼女がほしいという思いは男性としてもちろんあるのだが、一男性として冷静に見るには、
――彼女がいない方がいい――
と考えることもあった。
彼女というよりも、女性をどこか実験台のような目で見ている自分に気が付き、急にハッとしてしまうことも今までにあった。助教授になって嬉しいという思いがある中で、一抹の寂しさを感じていた理由が、女性に対しての自分の目が、さらに心理学という意識を強くして、冷静な目で見つめるような立場に追いやったことであることで、隠れ家のような場所を欲するようになったのだ。
道で声を掛けてきた女性、厳密には自分の生徒であるのだが、同じ冷静な目で見るとしても、生徒として見ているわけではなかった。
かといって、彼女という雰囲気でもない。彼女を持ちたいと思えば、もう少し自分の気持ちの中でテンションが上がってくるものなのだろうが、そんな雰囲気を自分の中で感じることはなかった。
自分の生徒でありながら、印象が浅いのは、彼女が最初からいたという意識が弱いからだった。最初の頃は助教授になったことで最初に受け持つゼミなので、生徒の顔を覚えようという意識があるからだ。もっとも、坂田はあまり人の顔を覚えるのは得意ではない。意識して覚えようとすればするほど、なかなか覚えられないものだった。
性格的には神経質なところがあり、思いこむと他のことが目に入らなくなったりすることのあるのが、坂田の性格だった。彼女の印象が浅かった分、道でバッタリ出会ったことで瞬間的なインパクトは、それまでを補って余りあるほどの効果をもたらしたようだ。
声を掛けられて、坂田は彼女を「隠れ家」にしていたスナックに誘った。最初、積極的に話しかけてきた割には、次第にテンションが下がってきていた。
「君は、僕のゼミに最初からいなかったような気がするんだけど、どうしてそう思うんだろうね」
「そんなことはないですよ。それだけ印象が浅かったんでしょうね。いつも目立たないようにしていたような気がします」
「まるで気配を消していたような感じなのかな?」
「そうかも知れませんね。私はあまり人と関わりたくないと思っている方なので、友達もほとんどいません」
「でも、今日は僕に話しかけてくれたのは、何か心境の変化があったのかな?」
「先生に聞いてみたいことがあったんですよ」
「それはどういうことなのかな?」
「最近になってからのことなんですけど、誰かと知り合った時、その人がどんな人の生まれ変わりなのかが分かるような気がしてきたんです」
「それはすごい能力ですね。でも、最近になっていきなりそんな能力を得たような感じなんですか?」
「そうですね。でも、そのおかげで私は、そのことが分かるようになる前の記憶が徐々に薄れていって、最近ではほとんど覚えていないようになったんです。記憶喪失ということなんでしょうか?」
「記憶喪失というと、何か衝撃的な出来事を経験したり、頭に直接衝撃を受けたりした時になるものなんでしょうけど、徐々にというのは、あまりイメージがないですね。もしそれが本当のことであれば、興味深いことです」
というと、彼女は少し寂しそうな表情になった。
「ごめんなさい。興味深いなんて不謹慎でしたね。あなたの気持ちもわきまえず、失礼な言い方をしました」
恐縮しながら坂田が言うと、
「いいんです。私も自分の記憶が失せていくのは、何かの原因があるというのは分かる気がするんですが、それが、他人を見て、その人がどんな人の生まれ変わりなのか分かるようになったことと関係があるのだと思えば、逆に何も分からないよりも、いいのかなって感じるようになりました」
「それで僕にいろいろ聞いてみたいと思ったわけですね?」