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矛盾への浄化

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――すべての記憶――
 と言っても過言ではないものにおっかぶせるわけにはいかない。
 もし、そんなことをして、完全におっかぶさればいいのだが、中途半端に記憶が残ったまま、過去の記憶が復元されたことで、
――記憶の矛盾――
 が生じてしまったらどうなるか、榎本はそのことが気になっていた。
 したがって、榎本は敢えて、それまで持っていたはづきの記憶を戻そうとは思わなかった。
――新しい時代、しかも過去に来たのだから、敢えて、未来に残してきた記憶を復元させる必要もないか――
 と、しばらく様子を見ることにした。そのことが今後どのような影響を与えるか未知数だったが、それほど大きな問題として見ていなかったのは事実だった。
 だが、人間には生まれながらに持っている、
――自己治癒――
 という力が存在する。いわゆる
――ケガや病気を治す力――
 であるが、記憶の回復にもこの自己治癒という力が影響していることを、その時の榎本にも、はづきにも分からなかった。もちろん、自己治癒という力がどのようなものなのか、専門外なので詳しくは分からないが、それでも、意識していなかったというのは、大きな落ち度だったことに違いない。
――俺はどこで間違ってしまったのだろう?
 と、いずれ考えるようになるのだが、榎本はこの時に記憶を戻そうとしなかったことが原因の一つであることに、違いはなかった。
 ただ、一つ言えることは、
――はづきは、この時記憶を戻されないことで、それ以降、本来なら生まれるはずではなかった特殊能力を手に入れることになる――
 ということに、まったく気付いていなかったということだ。
 はづきは、自分が気になった人の将来が見えるようになった、それは見たくないことまで見えることであった。最初は、気になった人の未来が見えることを嬉しく思っていたが、見たくないものまで見えてしまうと、今度はそれがどれほどいたたまれないものなのかを思い知るようになり、
――こんなことなら、過去の記憶なんていらない――
 と感じるようになった。
 先のことが見えて辛いのは、今思っていることが過去のことになり、過去のことが募る思いに変わっていくということが分かったからだ。
 この思いが、はづきの中で、定期的に記憶を失わせる思いに繋がり、交通事故に遭うことで、本当に記憶を失ってしまうことに成功したのだ。
 交通事故はもちろん偶然だったのだろう。しかし、潜在意識の中にある、
――記憶を失くしてしまいたい――
 という思いが、交通事故という、一歩間違えれば「死」というものまで見えていたことに繋がってしまうことに結びついていたのだ。
――潜在意識というのは、その人の「死」をも恐れぬ感情を呼び起こすのかも知れない――
 その時のはづきは知らなかったが、特殊能力を手に入れたことで、自分が余計な堂々巡りを繰り返してしまう運命に陥ってしまったのだった。それを思うと、定期的に記憶を失うことや。人の人生が分かってしまうという「副作用」は、何とも言えない皮肉な運命を背負わせることになった。
――過去に戻ってきたことが災いしてしまったのだろうか?
 榎本は、交通事故に遭ったはづきを遠くから見守ることしかできない自分が無力であることを感じていた。そして、はづきの記憶を完全にしてはいけないということの理由を作ったのが自分であると思いこんでいた。その思いに間違いはないのだが、
――見たくないものまでが見えてしまう未来と、消してしまいたい過去――
 この二つを同時に持っているのは、はづきだけではなく、他ならぬ自分であることも分かっていた。はづきがどのように考え行動するか、榎本には大いに参考になることだった。誰に隠すというわけではなかったのに、まわりの誰も榎本の苦悩に気付かなかったのは、榎本がそれだけまわりから意識されていないということであろう。それは、気配を消しているものなのか、それとも何か壁を作っているものなのか、どちらにしても、元は榎本自身である。はづきの苦悩も榎本だけが分かっているだけで他の誰にも分からない。苦悩と孤独の板挟み、セットで考えてみると、案外と組みしやすいものなのかも知れない。はづきも表に出さないだけで、榎本の苦悩を分かっているのかも知れない。そう思うと、若き日の坂田が今の榎本を見てどう感じているのか、次第に気になってくるのだった。
――はづきが自分を前に遠慮もなく、思ったことをそのまま言ったのは、はづきが僕の気持ちを分かってくれているからなのかも知れない――
 いくらオブラートに包んで話をしても、二人は定期的に記憶を失うという意味で、共通した思考の持ち主だった。相手の考えていることは、内容によってはお見通しだったりする。そのことを分かっているので、敢えて思ったことを口にするようにしたのかも知れない。
 記憶というと、普通は過去のものだと思うはずだ。未来の記憶があるなどというのは、誰が考えてもありえない。特に若き日の坂田の時代であれば、
「そんなことを神様が許すはずもない」
 と、もしそんなことが起こりそうなら、矛盾が起こる前に、矛盾を起こそうとする人間を、闇から闇に葬ってしまうという発想になりそうだ。
 はづきの行動が、もしその神様の怒りに触れたのだとすれば、やはりその原因を作ったのは榎本である。
――どうして、僕にではなくはづきなんだ――
 自分の身代りにはづきは交通事故に遭ったのではないかと思うと、後ろめたさが脳裏をよぎる。そして、この時代では、自分がはづきと接することが許されない気がした。幸いなことに、はづきは記憶を失っている。榎本に気付くことはないだろう。
 はづきの記憶が次第に戻りかけているのを感じたのは、それから少ししてからだった。
 はづきは、坂田を恐れているのが分かってきた。それは榎本が危惧していたことであったが、榎本がこの時代にはづきを連れてきたのは、坂田教授がはづきに何かの実験を施そうとしているのに気付いたからだ。
 それが何なのか、坂田教授自体の記憶が完全に失われているので、まったく分からない。ただ、何か洗脳しようとしていた形跡が感じられる。ただ、教授によってはづきは、
「失敗作」
 だったのだ。
 メモ帳をめくっていくうちに、はづきが生まれた時、それは教授の元に来る運命であることを、はづき自身分かって生まれてきたかのような書き方をしている。赤ん坊に分かるはずもないのに、そのことを感じるのは、はづきが相手を見ただけで、その人が誰の生まれ変わりであるかということが分かる特殊能力を持っていることにも関係のあることなのかも知れない。
 だが、教授が失敗作だと思ったのは、ある意味、早とちりだったのかも知れない。
 教授が求めていた力というのが、気になった人の未来が見えるという予知能力であった。ただ、そこにはどうしても、
――見たくないものまでが見えてしまう――
 という副作用が発生し、本当はそのことも含めて研究しなければいけないものを、負の要素から逃げてしまうという後ろ向きの発想になってしまったことが、今回のような事態を招いたのだ。
 何かの研究には副作用という、
――招かざるべき反動――
作品名:矛盾への浄化 作家名:森本晃次