矛盾への浄化
果たして存在していたメモ帳は、中を見ると、榎本が欲していたものに間違いない。研究内容もさることながら、坂田教授の気持ちや考えの移り変わりが、榎本には興味を引くのだった。
坂田教授が研究していたのは、一人の女性だった。彼女の名前については、ハッキリと書かれているわけではなかった。
「部屋を乱雑にして、誰かに見られるかも知れないような状況においておきながら、名前を隠すなんて、いかにも坂田教授らしいな」
と思いながら読み進んでいくと、その女性が次第に研究材料から、自分の所有物に変わってくるのが見て取れた。
それが精神的なものから来るだけなのか、それとも実際に自分の所有物としてしまったのか、メモ帳からだけでは判断がつかなかった。ただ、坂田教授の性格から行くと、そこまでの度胸は感じられない。メモ帳はあくまでも妄想の中で、勝手に作り上げた世界を描いているだけなのだろう。
そのメモを見た榎本は、自分に運命的なものがあることを悟った気がした。しかも、その運命に逆らうことはできない。坂田教授の部屋に入ってメモを持ってくることからすでに、
――贖うことのできない運命――
であったのだ。
そう思うとすべてが運命に思えてきた。
はづきを好きになったのも運命、さらには自分が自殺したいと思ったことも、どこかで今の自分に繋がることが運命づけられていたのだとすれば、はづきを若き日の坂田に合わせるために、タイムマシンを使って過去に戻ることが運命だと感じなければいけない。
ただ、その前に教授が何を研究していたのかということを分かっていなければ、過去に戻ったとしても、何ができるというわけではない。無駄足になってしまっては、何にもならないではないか。
いくらタイムマシンが開発されているとはいえ、過去に戻るということは、非常に大きな危険を孕んでいることは分かっている。しかも、自分に関係の深い過去に戻るのだ。当然、パラドックスが頭を過ぎらないわけもない。
――自分が坂田教授の前に現れなければいいだけだ――
と思っていたが、どうもそういうわけにもいかないようだった。はづきを一人、若き日の坂田教授に預けるなど、想像もできない。しかし、はづきをこのままにしておくと、今の坂田に作られた記憶だけの女性になってしまう。それだけは、何があっても許せないと思った榎本だった。
榎本が最初に考えたのは、
――一体、どの時代に戻ればいいのか――
ということだった。
そのために、教授の部屋からメモ帳を盗み出した。だが、盗み出して見たとしても、メモには日付が乗っているわけではない。闇雲に戻る場所を模索するわけにもいかない。タイムトラベルには未知数なことが多すぎる。何度も時代を行ったり来たり、できるはずもないのだ。そう思うと、一番の問題がどこにあるのか、見えてきたのだ。
それでも、メモ帳を丹念に読んでいくと、どの時代のことを書いているのか、想像がついてくる。大体の時代に的を絞ることができれば、メモに書いてあるその時の事件などから、大体の年月が分かってくるというものだ。ハッキリと分かっているのは、坂田が助教授になった頃だということだった。
もう一つキーポイントになったのは、坂田教授がその頃に、記憶を失った時期があったということだった。原因は定かではないし、坂田教授から聞いた話というだけなので、どこまで信憑性があるのか分からない。それでも、今は些細な手がかりでも貴重だった。以前に聞いた教授の話を思い出しながら、当時の病院の記録を探していくことに、思っていたほどの苦労はなかった。
戻る時代を研究しながら、榎本は坂田のメモ帳を読み返していた。少し気になったのは、時系列に書かれているはずなのに、どこか順序が違っているのではないかと思わせるところだった。物理的に違っているわけではないのだが、
――読む人が読めば分かる――
という程度の矛盾が手帳には書かれていたのだ。
それがまったくの無意識によるものなのか、意識してのことなのかによって、これから戻るべき時代も、若干変わってくるのではないかと思えた。日記を読み進んでいくうちに、最初には感じなかった矛盾が目立つようになってきた。そう思うと、少なからずの教授の中にある意識が働いているように思えてならなかった。
一貫して言えることは、研究している内容として、誰か一人をターゲットにしているのは分かったのだが、それが誰なのかということは完全にボカしている。しかもまわりは教授が誰かをターゲットにして研究しているであろうことを知らないだろうと、日記の部分で書いていた。
――俺が過去に戻って、はづきを教授の前に出さなければいけないのだが、この日記に沿って考えると、二人が知り合うところを誰にも知られないようにしないといけないんだ――
と感じた。
その一つの方法として、はづきの記憶を消すという方法が考えられた。この時代では人の記憶を操作することは、一部の研究者の間ではそれほど難しいこととはされていなかった。失うことになる記憶も、退避しておける装置も開発されていた。ただ、倫理的に問題が山積みなため、公には研究が進んでいることは隠されていた。公になっているわけではないので、法律で規制することはできないが、極秘で監視の目が光っているのも事実だった。だが、それも現代で起こることだけなので、過去に連れていった人間の記憶まで監視できるものではない。榎本は坂田教授を欺いてまで行おうとしていることなので、監視の目を欺くことくらい、さほど大きな問題ではないように思えたのだった。問題はタイミングで、先に記憶を消した後に過去に送り込むか、過去に送り込むタイミングで記憶を消すか、しばらく榎本は悩んでいた。しかし、その考えは取り越し苦労で、榎本の計画が具体的に決まってきたあたりで、はづきは記憶を失いかけていた。急いで榎本は、残った記憶を装置に退避して、はづきの記憶がなくなるのを待っていた。
その時、榎本には違和感があった。その違和感がどこから来るのかすぐには分からなかったが、確信はないまでも、予感としてはあったことなのだが、違和感がはづきの中に生まれた副作用であることに気が付いていた。
副作用のことや、はづきがどうして突然記憶を失うことになったのかということが気がかりだったが、その二つが根本で繋がっていることを漠然としてだが分かっていた。過去にはづきを送り込むという計画は、すでに中止することができないほど、榎本の中で出来上がっていた。
――このまま計画を中止すれば、歴史が変わってしまう――
という発想が榎本の中にあったのだ。
榎本は、今の時代では坂田教授を尊敬していて、立場としては部下であった。年齢的にもかなり年上であることもあり、まるで父親のように感じていた。
はづきの副作用には二種類あることを、その時の榎本は分かっていなかった。
――過去に戻ることで、一つはすぐに分かるような気がするな――
と考えた。