矛盾への浄化
時間を超える瞬間移動が可能になったのは、ここ数年だった。しかも、今でもまだ市販されているわけではない。一部の研究所で許可制になっていて、国から認められた場所で、認可されたことでなければ、行ってはいけないことになっている。しかも、それは限られた時間内だけのことで、数日のことであれば許されるが、それ以上のことで許されるなど、聞いたこともなかった。
ただ、理論的には可能なことであって、実験も成功していた。ただ、実践で使用されたことがないというだけのことだった。だが、そこには倫理という大きな壁があり、その壁を突き崩すだけの論理が、まだ形成されていなかったのだ。
そのメモに書かれていることは、日々の研究結果だけではなく、本人の感想も書かれていて、日記帳も兼ねているようだった。本人が忘れないようにしようと思って書き止めていたのか、それとも、時々読み返して、自分の中の戒めにしようとでも考えていたのか、その時の坂田の気持ちを計り知ることは難しかった。
――もし、俺だったら、どうなんだろう?
榎本は、メモ帳を見ながら、そのことを考えていた。メモ帳の中には、自分の記憶が薄れていくことを憂いている内容も書かれていたが、途中から辻褄が合っていないような内容に変わっていった。
――やはり記憶が完全になくなってしまったからなのだろうか?
と感じたが、それだけではないようだ。日記を書いている本人である坂田は、当然のように自分を一人称で書いていたのだが、途中から、自分を「彼」という三人称で描くようになっていた。明らかに描写が変わっていたのだが、基本的な視点や書いている内容に関しては、それまでとは変わりがない。
だが、話は続いているわけではない。途中までと、途中にしどろもどろの箇所があり、それを超えると、また視点が戻っている。ただ、その時には三人称に変わっているという違いがあり、その間に何があったのか、榎本は気になっていた。
最初は、メモ帳の登場人物は坂田だけだった。他の人のことに触れることはまずなく、その時の坂田のまわりにどんな人がいたのかということを思わせる内容は一切なかった。ほとんどが研究結果と、その日の心境だけで、心境も一人自分が感じたことだけだった。そこに人の介する余地はなく、すべて自分中心に世の中が回っているかのようだった。
途中、しどろもどろの内容に入ってくると、支離滅裂な内容に一見見えていたが、その理由が、
――誰か他の人の存在を考えれば、辻褄が合うような気がする――
というものだった。
しかも、その人が一人ではなく、二人以上に思えてならなかった。一人であれば、勝手な想像も許される範囲内にあるのだろうが、支離滅裂な内容を繋ぎ合わせようとするならば、複数の人でなければ繋がるものではなかった。複数の人の存在を感じた時点で、勝手な想像は許されるものではなく、余計なお世話にしかすぎないことを感じていた。
そんな期間が一冊分のメモ帳に存在していて、それまでの坂田のメモ帳期間から考えれば、三か月くらいのものになるようだった。
――三か月というのは、思ったよりも中途半端な期間だな――
と感じたが、
――その時の坂田さんが感じていたのは、正常な感覚の三か月だったのかどうか、疑わしい――
と思っていた。
つまり、本当は三か月だったのだが、本人の感覚としては一年以上くらいの感覚だったのかも知れない。内容が支離滅裂だということは、その時の思考回路にも時系列のようなものはなく、一度進んだと思えば、急に戻ってみたりしているのかも知れない。何しろそれ以前の記憶はすっかり失っていることをメモ帳は物語っている。悲痛な叫びとして坂田はメモ帳に書き残している。今の坂田教授からは想像できないような感じだった。
しかし、榎本はそんな坂田に人間らしさを感じた。いつも冷静で、そのくせ、時々癇癪を起していみたりするような、
――いかにも学者肌――
を思わせるそんな存在に、戸惑っていたのも事実だった。
過去の坂田を覗き見ているような気持ちになっている榎本は、次第に、
――こんな坂田教授を今までに知っていたような気がする――
と思うようになっていた。
それと同時に、今度ははづきのことも、本当は以前から知っていたような気がしてきたのも事実だった。
――どうしてこんな感覚に陥ったんだろう?
榎本は真面目な性格で、その基本は、自分が信じたこと以外はあまり信じないというところにあった。要するに、
――自分に正直――
なのだ。
得てして自分に正直な人は、自分勝手な人が多いと思われがちだが、彼は自分のことが好きなのだ。
――自分のことを好きにならずして、他人を好きになるなどありえることではない――
と感じていた。
そんな風に思うようになったのは、実は最初からではなかった。今まで生きてきた中のどこかで変わってしまったように思えた。それまでの自分もさほど変わっていないと思うのだが、自分に確信めいたものを持つことのできない自信を持てる人間ではなかったことは事実だった。
――一体、いつからだったんだろう?
この思いが、榎本にとって大きなことだった。まずは、そう感じることが一番大切なことだったのだ。
いつからだったのかという問題もさることながら、まずは、いつからなのかを考えるという思いがすべてのスタートラインだったのだ。ただ、今の榎本にはスタートラインという言葉は微妙だった。それはまるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
という禅問答のようなものだからである。それがパラドックスの発想であり、「捻じれ」を基本に異次元を発想した「メビウスの輪」に匹敵する考えであることに違いはなかった。
坂田教授の部屋にメモ帳があった。そして、それを取ってきたのに、坂田教授は手帳がなくなったにも関わらず、まったく様子が変わることはなかった。
坂田教授は、神経質だった。
部屋が散らかっているのは、
「これにはこれで理由があるんだよ。綺麗に整理してしまうと、却ってあるべきところにあるべきものがないような気がして、却って落ち着かない」
他の人なら、整理整頓ができない言い訳に聞こえるのだが、坂田教授の場合には、なぜか説得力がある。
榎本はそんな坂田教授が手帳がなくなったことに気付かないはずもない。しかも、坂田教授の性格では、
――気になることをすぐに表に出すところがある――
と、自他ともに認めるところがあった。それなのに、何も言わないというのは、
――なくなったことに気付かないのか、本当は最初からそこにあったわけではないということなのか――
としか思えなかった。
本来なら、最初からそこになかったなどという発想はありえるはずもないので、すぐに却下するのだろうが、榎本にはその発想を簡単に却下することはできなかった。むしろ、その考えの方に信憑性を感じるのだった。
榎本も、
――ひょっとすると、元からあったわけではなく、俺が行くことで、そこに存在しているかも知れない――
という「ダメ元」で捜索してみたのだ。