矛盾への浄化
と答えたが、今度はもう一人の自分は答えてくれない。しばらくして、
「何もかも分かっているくせに」
と呟いて、消えてしまった。その答えは時間を置いたことで、もはやもう一人の自分の返答ではなかった。もう一人の自分が消えてしまったと思ったのは、実はその言葉を発する前だった。つまりは、自分で自分に言い聞かせたことになるのだった。
――僕は、榎本助手に嫉妬しているのかな?
と感じると、自分が分からなくなった。心理学を極めるほどに研究を重ねてきたのに、一番分からないのが自分だというのは皮肉なことだ。
本当は分からないのではなく、今まで考えてこなかっただけのことだ。
いかに心理学という学問を究めてきたとはいえ、さすがに今まで考えたこともなかったことを即断で分かるなどということはありえない。
逆に考えたことのないことの方が、
――こういうことこそ、深く掘り下げないと――
と思い、時間を掛けて探る方を選択しているに違いない。
坂田教授と榎本助手の間で、どっちが強くはづきを愛しているというのだろう?
榎本の気持ちを意識して、対抗心を抱いている時点で、邪念が入ってしまって、自分が榎本助手に適わないことは、何となくだが、坂田教授にも分かっていた。
分かっているからこそ、嫉妬するのだ。
――自分の方が気持ちが強い――
と感じているなら、競争相手に嫉妬などするはずもない。
では、榎本助手は、坂田教授がはづきをどう思っていると感じているのだろうか?
最初こそ、
――彼女を実験台にするなんて――
という思いから、冷徹な気持ちで見ているものだと思いこんでいた。しかも、その時には自分が深いところではづきを愛してしまったことで、他の人を意識することはなくなっていた。
だが、榎本には教授がはづきをオンナとして意識していることに気付いていた。それは、
――「女」としてではなく「オンナ」としての意識だ――
という想いであった。
少なからず、淫らな思いが含まれていて、そこに人間らしさを感じた榎本は、それでも教授が淫らな思いを抱きながら、
――それを行動に移すなどということはありえない――
と思っていた。
しかし、一抹の不安は残っていた。それが彼女を実験台にしようとしているその感情だった。
榎本は、教授がはづきに対して最初に感じた、
――この人と会うのは、本当に初めてなのだろうか?
という思いを知った時から、教授に対して抱いていた思いが今までと少しずつ変わってくるのを感じたのだった。
榎本助手は、自分がはづきのことを好きになったと感じたのは、坂田教授よりも早かった。しかも、最初に坂田がはづきを実験台にしようと思う以前から、榎本の中には、教授に対して恐怖のようなものを感じていた。
まさか、はづきを実験台になどしようと思うなどとは思っていなかったが、坂田教授がはづきのことで、悩んでいるのは分かっていた。ただ、それが自分に対しての嫉妬に繋がり、それがはづきを実験台にするなどという発想に繋がるなど、ビックリの展開になってしまった。
最初から、榎本は教授に対して、はづきのことでは後ろめたさを感じていた。
――はづきを助けなければ――
という思いがあったからだ。
その思いが強くて、
――はづきを愛している――
という感情を自分の中で押し殺すようになってしまってのは、榎本助手の性格によるものなのだろう。
一つのことに集中するとまわりが見えなくなってしまうのも、榎本の性格の一つだった。その性格がこの場合では、完全に裏目だった。しかも、榎本助手は真面目なところがあるので、融通が利かない。融通が利かないというところが、違う意味ではあるが坂田教授にも分かるので、坂田教授には中途半端に榎本助手の考えていることが分かった。
それは、決していい方向ではない。完全な誤解の部分もあり、誤解は榎本助手を追いつめる形になるのだが、そんなことを榎本助手や、はづきに分かるはずもなかった。
――榎本は、はづきのことを愛しているくせに、それを表に出そうとはしない――
この感情は、坂田教授が感じたものだが、もし坂田教授がはづきのことを好きでなければスルーしたことだろう。
いや、逆にスル―できなかったからこそ、坂田教授は自分がはづきのことを好きになったという感情に確信を持てたのかも知れない。そういう意味では榎本助手の存在は、坂田教授が自分を顧みる上で、必要不可欠な存在だった。
――まさに助手にふさわしい――
というのは、いかにも皮肉なことであった。
――僕は一体どうすればいいんだろう?
何に悩んでいるというのか、確かに乗りかかった船を途中で降りるのは、これからの自分の人生で後悔を残すだけであるが、まだその時、はづきに対して自分が真剣に愛しているということを分かっていなかっただけに、それが悩みになっているのだと思った。
榎本助手は、坂田教授の研究室に一人籠って、教授が過去に書き残した何かがあるような衝動に駆られ、夜の研究室を物色していた。
元々、教授は自分の研究室を開放していて、助手がいつでも見れるスペースを作っていたのだ。その中に探しているものがあって、そう簡単に見つかる場所にあるなど、想像できるはずもなかったのに、なぜか、そこにはづきに対しての研究メモがあるのが見つかった。
――これは、教授が若い頃に書いたものだ――
榎本は、こっそりとそのメモを持ちだした。綺麗に片づけられた部屋の一番奥に並べられていて、ずっと見た記憶もなかったからだ。ぎっしりと詰められた本棚にでもあれば、スカスカになった部分に違和感を感じるに違いないが、そんな雰囲気でもなかった。
――持って行っても、教授は気付かない――
と、なぜか榎本は感じた。
メモ帳は「ネタ帳」と書かれていて、何冊もあったのだが、書かれた時期はどうやら、坂田が助教授になる前くらいまでがほとんどだった。
そして、「ネタ帳」の最後は、どうにも尻切れトンボになっていた。そこに書かれていたのは、当時の坂田が自分の記憶が徐々に薄れていくことを憂いていることだった。
気になったのは、そのメモ帳が書かれた時代の割に、結構新しいことだった。
――いくら丁寧に扱ったとしても、ここまで綺麗に残っているはずなどない――
まるで新品と言ってもいいほどの素材に、どんなに古くても、一年以上前だとは思えなかった。いた見方が物理的にそれ以上前であるはずがないことを示していたのだ。
そのことを感じた時、榎本はそのメモ帳が、元からそこにあったのではないということを感じた。急に時代を飛び越えて、榎本が探そうとしたことを分かっていたかのように、満を持して、教授の研究室に現れたのではないかという思いである。いかにも都合のいい想像だが、榎本の中で信憑性はあった。過去から誰かが、時代を超えて、この場所に瞬間移動させたのだ。
――今の時代であれば、そんなことは可能であるが、この手帳を書かれた時に、この発明があったとは信じられない――