矛盾への浄化
その時の榎本は、まるでこの世のものではないと思うほどに憔悴しきっていた。今にも自殺しかねない様子に、坂田教授はずっと気にしていたのだ。
「榎本君は、そんなに神経質になるほどではありませんよ」
と、その時の助手に、自分が榎本のことが気になることを告げると、他の人はさほど気にしていない様子だった。
「いやいや、今にも自殺しそうな様子に、皆気付かないのかい?」
というと、
「えっ、そんなことはないですよ。それに榎本君は失恋したくらいで自殺しようなどという弱い人間でもないですよ」
と言われた時、坂田はハッと思った。
――自殺を考えている人間というのは、弱い人間なんだよな?
と思い立ったのだ。
考えてみれば当たり前のことのはずなのに、坂田教授は自殺しかけているように見える榎本が決して弱い人には見えなかったのだ。
「弱い人間じゃないかも知れないけど、私には危険に感じるんだよ」
「先生のおっしゃていることがよく分かりません。何か直感で、彼が自殺しそうな気がするんですか?」
「いや、直感というわけではないんだ。もちろん、最初は直感があったからこそ、彼が気になったんだけど、冷静に考えても、結論としては彼が自殺をしそうに見えるように思えてならないんだ」
「ということは、教授は彼が自殺をしようとしているのは衝動的な行動ではないと言いたいわけですよね?」
「そういうことになるね」
「でも、それだったら、計画して自殺を考える人というのは、人間的に弱くないということを言いたいように聞こえるんですけど、いかがですか?」
そう言われてみれば、自分の観察眼の前には矛盾があった。
「自殺を企てる人というのは、いくつかのパターンがあるということになるのかな?」
「教授の言われていることを考えると、そういうことになるのかも知れませんね」
榎本が本当に自殺を考えているのかどうか、話をしていると、分からなくなってきた坂田だった。
榎本を観察していると、いつの間にかそれまで感じていた自殺をする雰囲気が消えていた。
――彼に何があったというのだ――
「榎本さんは別に今までと変わりませんよ」
坂田教授は、榎本から自殺の雰囲気が消えたことを、その時の助手に話すと、榎本に変化がないという返事しか返ってこなかった。
――私ばかりが一人、榎本君のことで、右往左往しているような気がするな――
まるで手玉に取られているかのようだった。
それから坂田教授は、パッタリと榎本助手のことを気にしなくなった。少々のことがあっても、
「ああ、榎本君なら大丈夫だよ」
と、他の人が心配することでも、榎本に対して、心配をしなくなった。
――きっと免疫ができたんだろうな――
一度、大きく心配してから、心配がないことに気付くと、今度は全幅の信頼を置くようになる。それは、最初の心配が、本当に心の底からの心配だったということを示唆しているに違いない。
教授は、同じ思いをした相手が榎本だけではないことを自覚していたが、それが誰だったのか覚えていなかった。
――そういえば、はづきを拾ってきた時、心底心配になった気がしたな――
はづきを実験台にまでしようとしたにも関わらず。心底心配したというのも、坂田の中の、
――心の矛盾――
だったのだ。
心の矛盾とは、今に始まったことではなかった。今まで半世紀近くも生きてきて、いろいろな経験をしたのだということを顧みると、今度は、
――あっという間だったような気もする――
と感じる。
「心の矛盾」とは、心の中にある二つのことを比較して、その結びつきが物理的におかしいと感じられることである。少なくとも心の中に二つの比較対象があり、それぞれをいつも気に掛けているのだということを悟らせる。なぜなら、普段はその二つを意識することもないからだった。
坂田教授は、榎本助手がはづきを好きになったことに気付いていた。なぜなら、坂田教授もはづきのことを実験台にすると言いながら、本当は彼女のことが好きだったからである。その理由は、最初に彼女に感じた、
――彼女は他の人にあるものがなくて、他の人にはないものがあるのだ――
という想いだった。
最初はそれを、記憶に対してのことだと思っていたが、それだけではなかった。はづきという女性の性格そのものを表していたのだった。
そのことを、坂田教授は気付いたのだが、もう一人そのことに気付いている人がいた。それが榎本助手である。榎本助手のことをずっと気にしてきた坂田教授には、その思いが手に取るように分かるのだ。
はづきは、他の女と違って見えた。もちろんその理由は、記憶を失っているからであるが、記憶を失っていることで、他の人に見られる「穢れ」を一切感じることはない。しかし、はづきのことに興味を感じない人にとって、穢れを感じさせないのは、
――人間らしさのない、冷たい女だ――
という思いを起こさせるようだった。
もし、はづきが男ならそこまで人間らしさがないとは思わないのだろうが、どうしても女性というのは、感情の起伏が激しく、しかもその感情には計算が含まれていて、嫉妬に狂ったりするのを見ると、
――これは本心なのか、計算なのか――
と男性に思わせるくらいが人間らしさだと思っている人も決して少なくないだろう。
はづきにはそんな雰囲気は一切感じられない。
最初、はづきを発見した坂田教授は、はづきに対して、吸い込まれるような思いを感じた。それがまさに、
――彼女は他の人にあるものがなくて、他の人にはないものがあるのだ――
という想いだった。
第一印象だったので、その時は彼女の記憶が欠落しているなど、すぐに分からなかった。そんな様子に、記憶の欠落を理解すると、はづきの大半を理解できた気がした。
しかし、理解できるところまでは結構早く、
――理解しやすいタイプなのかな?
と感じたほどだが、一歩その先を見ようとすると、完全に濃い霧に包まれたかのように、前が見えなくなってしまっていたのだ。
他の人にないものを見つけるよりも、他の人が持っていて、はづきに足りないものを探すのは困難ではないように思えた。
少なくとも記憶を失っているのだから、物理的にはづきには記憶という、他の人にはあるのに、はづきにはないものというのをすぐに発見できた。しかし、それだけではないような気がするのだが、それを発見することは困難だった。
――もっとはづきのことを知らなければ――
という思いを坂田教授は抱いた。
その思いを坂田教授は、
――自分の研究を達成するための手段――
だと思っていたが、どうもそうではないようだ。
――「思い」は「想い」に繋がる――
という考えを持つようになったのは、榎本助手がいたからだった。
坂田教授は、榎本助手の考えが手に取るように分かる。あれだけ苦しんでいた榎本教授が、はづきの登場で吹っ切れるのであれば、それは喜ばしいことだった。
しかし、坂田教授の中で自問自答が繰り返された。
「お前はそれでいいのか?」
とである。
「いいじゃないか、これで榎本助手に気を病む必要もない。安心して研究に打ち込めるだろう?」