矛盾への浄化
「それはやはり同じ場所にあったのだ」
と答えることだろう。
記憶しようとする場所に意識するための場所があるのだから、当然、意識が優先されることになる。そのまま記憶しようにも、同じ場所なので、記憶しようとした時、すでに次の意識をしてしまうことで、その時の記憶は飛んでしまうのだった。
――はづきにとっての記憶する場所が意識している場所と同じなのは、いつからのことだったのだろう?
本来であれば、可哀そうな娘で、何とかしてやりたいのは山々だったが、坂田教授には何とかしてあげることはできなかった。
――それならば――
と考えたのが、
――はづきを実験台にして、記憶と意識の関係を研究することにしよう――
もし、他にもはづきのような人がいて、結局助けられないのであれば、彼女には申し訳ないが、自分の実験台になってもらうことで、これからの心理学や精神科の研究に役立てることで、少しでも世の中のためになればいいと思ったのだ。
しかし、その思いが自己満足に過ぎないことを坂田教授には意識がなかった。もっとも、大学教授というのは、大なり小なり、自己満足によって研究が勧められるものだと言っても過言ではないと、坂田教授も感じていた。
ただ、自己満足というのは、学者に限ったことではない。人間誰しも持っているもので、そのことを、その時の坂田教授には分からなかった。それは、
――自己満足は悪いことだ――
という意識があるからで、何とか正当化させたいという思いを抱いているのがその証拠だった。ちょっと考えれば自己満足がそんなに悪いことではなく、むしろ、
――人間が欲する欲というものがあるから、自己満足も必要なのだ――
という考えを持つことができれば、余計な正当化など考える必要もないはずだった。
それにしても、はづきを実験台にしようなどという大それたことを考えるようになったのは、時期というタイミングも悪かったのかも知れない。
当時、坂田は教授になってから、十五年が経っていて、教授としての経験は豊富だったが、それに伴った研究という実績には欠けていた。そろそろ後輩は助教授たちに自分の立場を継承させることに従事しなければいけない時期になってきたのに、肝心の研究が追いついていないということで、坂田教授にも焦りがあった。
――ここで起死回生のホームランをかっ飛ばさねば――
と思ったとしても、それは無理のないことだった。
坂田教授も、さすがに悪魔に魂を売り渡すような非道な人間ではない。はづきを見ていて、
――このままでも十分に不幸のどん底なのだから、自分に従順な女に仕立て上げて、研究結果を得られれば、それが彼女の幸福にも繋がる――
と、自分に言い聞かせていた。
実際のはづきは、自分に記憶がないことを悩んでいることはなかった。意識も普通の人ほどハッキリとしているわけではない。何しろ、坂田教授と出会った時は、
「私は一体どこから来て、どこに行こうとしているのか、まったく分からないの」
と、飼い主に捨てられて、ノラになってしまった猫のような状態だったのだ。だから、教授にとってはづきという女は、
――知り合ったのではない。拾ってきたのだ――
という意識が強かった。
最初は誰にも知られないように、自分の部屋に匿っていた。しかし、研究をするために、大学の研究室に連れてくるようになると、助手である榎本を始めとして、限られた人間には、はづきの存在が知られるようになった。坂田教授は別にそれでもいいと思うようになっていた。
「彼女は、河村はづき。記憶を失っているので、彼女の治療を兼ねて、私は彼女を研究しようと思っています」
坂田教授の話を助手たちは、そのまま鵜呑みにしていた。数人いる助手の中であまり目立たない存在の榎本も、教授の言葉を一番に鵜呑みにした口だった。
――坂田教授は、彼女の記憶を取り戻させようとしているんだ――
と、教授の優しさに触れることができたような気がして、嬉しく思ったほどだった。
しかし、日が経つにつれて、少しずつ様子が違ってくるのを感じた。最初は何となく何かが違うという感覚だったが、実際に違いを感じたのは、
――最近、教授の目の色が変わった――
と感じた時だった。
もはや、その時の教授の目は、榎本が尊敬していた坂田教授とは違っていた。自分の中で無意識に持っていた許容範囲を幾分か逸脱していたのである。
――教授は一体何を考えているのだろう?
疑いの目で教授を見るようになると、今度は教授が考えていることが手に取るように分かってきたのだ。
――まさかそんなことが――
榎本にも、坂田教授がはづきを自分の実験台に仕立て上げようという気持ちになっていることが分かってきた。だが、その時はまだそれがいいことなのか悪いことなのか、判断がつかなかった。何しろ今まで信じて疑わずに、黙ってついてきた相手に対して感じた「悪」である。そう簡単にそれを認めることなどできるはずもなかった。それを認めてしまうということは、
――俺も悪の仲間入りしていたことになるからだ――
と感じたからだ。
坂田教授は、自分の若い頃のことを思い出していた。自分の最も信頼のおける助手である榎本に、
「私は、いつの頃だったか、記憶を失っていた時期があるんだ。その時というのは、後から思い出してはいけないことだったのか、今の記憶が戻ってから、少しの間だけは覚えていたはずなのに、ある日を境に完全に記憶の中から消えてしまったんだよ。ちょうどその頃からだったかな? 私が何を研究しなければいけないのかということを悟ったのは……」
坂田教授は、榎本助手を前に思い出しながら、噛み締めるように話をした。
「記憶を失った人を僕も今までに何人も見てきましたが、一度失った記憶が戻ってからは、その間に記憶していたものを忘れてしまう人が多かったように思います。少しの間だけでも覚えていられたのを、僕はよかったと思うべきではないかと思います」
と言って、悲しそうな表情をした。
この時の榎本の表情を、坂田教授はしばらく忘れることができなかった。
――どうしてこんな顔ができるんだ?
榎本のしている表情は、相当自分に関わりの深い相手に対して感じたことを顔に出した時に示す表情に思えた。坂田教授が榎本に出会ったのは最近のことで、自分が記憶喪失だった頃、榎本はまだこの世に生を受けていなかったのではないかと思うほどだったのだ。
榎本は、坂田教授のことを悲しんでいるのではなく、過去に自分の知り合いが、同じように記憶喪失になっていて、記憶喪失が解消してから、記憶を失っている間にできた新たな記憶に何か思い入れがあったのかも知れない。
坂田教授は、榎本のことを何も知らなかった。
というよりも、榎本に最初に出会った時、
――本当に初めて会う相手なのだろうか?
と感じたのを思い出した。それが過去にも同じ思いを抱いたことがあり、それが榎本であることを知る由もなかった。若き日の坂田は、タイムマシンも信じられなければ、自分の研究も信じられなかった。ずっと迷走していたと言っても過言ではないだろう。
坂田教授が榎本と出会ったのは、榎本がちょうど失恋した時のことだった。