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辻褄合わせの世界

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 個室に入院しているのも、記憶喪失だという理由とともに、完全に殻に閉じこもってしまった自分をコントロールできそうにもないという理由だった。
 病院に運び込まれてから意識はあるのに、一言も喋ろうとしない。夜も目が冴えて、なかなか寝付けない。時々、思い出したように呼吸困難に陥り、ナースコールを鳴らす。ナースコールを鳴らす時が、コミュニケーションを取ることのできる唯一の機会であるにも関わらず、やはり一言も話そうとしない。
「どうしたものか」
 と、医者もほとほと困り果てていたが、もっと大変なのは、日ごろから顔を突き合わせている看護師だった。
 いつも身の回りの面倒を見ている看護師は決まっていて、最初こそ、
「逃げ出したい」
 と思わせたほどだったが、次第にその状況にも慣れてくると、淡々と世話をするようになった。
「慣れてくるのも、問題だわ」
 と、思いもしたが、こればかりは仕方のないことだった。そのうちに口を利いてくれる時が来るのを信じて待っているしかないのだった。
 そんな時だった。
「看護婦さん。喉が渇いたんだけど」
 と、消え入りそうな声ではあったが、しっかりとした口調で話しかけてくれた。まだまだ表情を出すというところまでは行っていなかったが、顔色はさっきまでと違い、生気が戻ってきたかのようだった。さっきまでは完全に血の気が引いていて、どんな光を当てても、表情というには程遠いとしか言いようのないものだった。
 元々、美奈は小柄でスリムだった。食事もまともに摂れておらず、睡眠も十分ではない状態であれば、血の気が引いたような顔色は、精神的なものから来たものなのか、それとも、体力的なもの来たものなのか、すぐには判断できない。言葉を喋れるようになり、少しずつ気持ちが解放されていくと、食欲も睡眠も十分に摂れるようになるのではないかと看護師は思っていた。そういう意味で、たった一言だとは言え、言葉にすることができたのは、大きな進歩だった。
 しかも、喉が渇いたということは、それまで食事もまともに摂ることのできなかった身体が、水分を欲したということになる。身体の面でも、進歩の表れだと思った。
「とりあえずは、記憶が一歩一歩戻るのを待つばかりだね」
 と、医者はニッコリと笑った。その中に、
「ちゃんとお見通しだよ」
 と、言わんとしているかのようで、少しビックリした。
 実際に美奈は言葉を発した時に、記憶が一部戻ったわけではない。その三日ほど前に、最初の記憶は戻りつつあった。
 だが、その一部の記憶も完全に戻っていたわけではない。交通事故に遭ったという記憶と、その日、自分が何かにイライラしていたという記憶。そして、自分の知らないところを歩いているのに気付いた瞬間から、記憶が飛んでしまっているということを思い出していた。
 それがどう一つにまとまるのか、自分でも分からない。もしかすると、一つにまとまらないかも知れない。それとも一つにまとまることを自分で拒否しているのか、とりあえず、その時はまだ記憶が戻りつつあることを、まわりの人に悟られたくはなかった。
 記憶が戻ったのは、その日、久しぶりにぐっすり眠ることができたからだった。毎日、張り切っているわけでもないのに、気を張らなければならない状況は、好きでもない相手のために、好きなふりをして、本当に好きな相手に見られていても、言い訳すらしてはいけないようなやり切れない気分を、毎日味わっているかのようだった。
 それでも気を張っていると、眠たいはずの時間に眠気が襲ってくるわけもなく、逆に昼間襲ってくる睡魔に勝てない状況が続くことになる。昼間寝てしまうと、今度は当然夜が眠れない。悪循環を繰り返してしまうのだった。
「最後にぐっすりと眠ったのって、いつ以来だったのかしら?」
 美奈は、思い返してみた。
 記憶を失ってしまったと思っている間は、思い出せるわけもないと思い、そんなことを考えたりはしなかった。だが、ふいに思ったことに対して、素直に思い出そうとしているからなのか、記憶を失う前も、しばらくの間、ぐっすりと眠ることはできなかった。
 眠っているつもりでも、気が付けば目を覚まそうとしている自分を感じる。眠ってしまうのが怖いのだ。
「このまま目が覚めなかったら、どうなるんだろう?」
 と、恐怖に駆られてしまうのだ。
 眠りに就いて、目が覚めなかった時のことを考えるなど、学生時代にはなかったことだ。むしろ、目を覚ます方が嫌だったくらいだった。
 それは、いつも楽しい夢を見ていたから、目を覚ますのがもったいないなどという思いではなかった。むしろ逆である。
 学生時代の美奈は、いつも何かに怯えていた。逆に、何をしていても楽しい時期というのもあったのだが、その二つが極端なのだ。
 どちらがどちらの反動なのか分からないが、言えることとしては、
「楽しいことや、何をやってもうまく行くなどという時期は長く続くはずはないということだ。必ずどこかで反動がやってきて、反動に耐えられるようにするには、絶えず不安を心の奥に置いておく必要がある」
 ということだった。
 いつも不安を心の奥に秘めていれば、何かあっても、それが免疫となって、冷静に考えられるようになるのではないかという思いがあったからだ。まわりの人を見ていて、いつも不安を感じていて、何かに怯えているような人ばかりだと思うようになったのは、自分の中に免疫を持とうと思うようになったからのことだった。
「悪い方に悪い方に考えるようになってしまった」
 というのは悪いことだという意識があり、その原因が、不安を払拭できない自分にあるということも分かっているのに、矛盾と言える考えが、自分の中で堂々巡りを繰り返してしまうことは、どうしようもないことなのだと思えてならなかった。
「目が覚めなかったら、どうなるんだろう?」
 という考え方もその一つで、本当に目が覚めなければ、どう後悔しても仕方がない。だが、それでも予期しておかないと、いきなり目が覚めないという事実を突きつけられることが何をおいても辛いことだということをその時になって気付いても、すでに遅すぎるのだ。
 病院のベッドに横になっていると、見えるのは天井だけだ。首を動かせば、他を見ることもできるのだが、
「もし、よそ見している間に天井が落ちてきたら、どうしよう」
 という考えが頭を擡げる。
「また、悪い方に悪い方に考えてしまった」
 と思う。
 身体の傷は大したことがないのだから、動かそうと思えば身体を動かすことは容易なことだった。
「それなのに、天井が落ちてくる発想をするなど、どうしたことなんだろう?」
 と、思うと、今度は本当に身体を動かせなくなってしまった。金縛りに遭ってしまったのだ。
 金縛りというのは、
「身体を動かせるはずなのに、どうやっても動かすことができない」
 と思うもので、身体が痺れていて力が入らないのか、見えない誰かが身体を抑えていて、そのせいで動かせなくなっているのか。その時に自分の身体を抑えている人は一人ではなく、数人いるような感覚に陥っている。
「一人であれば、何とかなる」
 という思いがあるからで、
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次