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辻褄合わせの世界

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 ただ、知ってしまったことは、美奈に少なからずのショックを与えた。しばらく男性と付き合うのが怖くなったのも、分からなくはない。

 美奈は、記憶を失っていると言っても、部分的な記憶喪失であって、昨年の失恋に関しての記憶はハッキリしていた。
「忘れてしまったつもりの記憶だけが残っているなんて」
 肝心な最近の記憶が欠落していた。
「交通事故にはありがちのことで、そのうちに思い出すこともあるはずなので、焦らず、ゆっくり思い出すことを勧めます」
 というのが、医者の話だったが、いかにも当たり前の話でしかないことに、半信半疑の美奈だったが、それも、相手が医者であっても、簡単に相手を信じられなくなっている自分を顧みらずにはいられなかった。
 美奈の記憶は、最初の頃とは打って変わって、途中から急速に戻りつつあった。何があったというわけではないが、一つを思い出すと、連鎖的にいくつかの記憶が繋がった形で思い出していくのだろう。しかし、肝心なことを思い出すことはできない。思い出すのは一年以上前の記憶ばかりであり、最近の記憶は、思い出そうとすると、頭痛がしてくる。
 ただ、その頭痛は、いきなり来るわけではない。最初は指先に痺れのようなものを感じてくると、今度は、目の前の焦点が合っていないことに気付く。ちょうど、目の前に黒いクモの巣が張っているかのようで、それが毛細血管ではないかと感じると、しばらくその状態が続く。
 目がその状態に慣れてくると、目が見えるようになってくる。最初は、よかったと思ったが、その後に襲ってくる頭痛は、喉の渇きを伴っていて、それまでに感じたことのない嘔吐を感じてくる。嘔吐にともなって、一番最初に感じた指先の痺れがまた戻ってきて、薬を飲んで、頭痛をやり過ごすまで、じっと耐えるしかなかった。
 そんなことが続くと、医者の話ではないが、無理に思い出すことができなくなってしまう。無理に思い出すつもりもないと思うようになると、
「よほど、思い出したくない記憶を、意識の中に封印しているのかも知れないわ」
 と思うようになった。
 知りたいという気持ちよりも、
「思い出すことの方が怖い」
 と思う方が強くなってきた。
「思い出す必要がないのなら、思い出したくない」
 と、美奈は思っていたが、美奈の思惑とは別に、まったく別のところで、美奈の運命を翻弄している動きがあることを誰がその時知っていたことだろう。
 そもそも交通事故自体が不可思議なのだ。美奈は、そのことから目を伏せていたが、それは無意識のことであり、しいて言えば無意識というよりも、本能的にというべきであろうか。
 美奈は大学一年生の時に兄の紹介で付き合った男性のことを思い出していた。その人ともすれ違い。一年前に付き合っていた男性ともすれ違い、それは自分が男性運に恵まれていないからなのか、それとも、運がないと思いこんでいることが、自分をネガティブにしてしまうからなのか、分からない。ただ、いつも兄が絡んでいることも事実で、兄の「おせっかい」のせいで、いつもすれ違った形になってしまう。
 しかし、それも紙一重のことではないだろうか。やり方さえ間違えなければ、兄の気持ちを、好意として受け止めることもできたはずだ。だが、兄に対して、どうしても許せない気持ちが残ってしまう。それが美奈の、
「兄に対してのコンプレックス」
 となってしまっていたのだ。
 兄は、入院している期間、しばらくは毎日のようにお見舞いに来てくれたのだが、ある日をきっかけに急に来なくなった。
 記憶を失っている美奈に対して気を遣っているのか、あまり自分のことを話そうとしなかった。
 それなのに、兄の記憶だけが美奈の中で戻ってくるのを感じた。
 しかし、それは兄が来なくなってからだというのも皮肉なことで、思い出してきたせいもあってか、入院中に見舞いに来てくれた兄の顔が、急に思い出せなくなっていたのは不思議な現象だった。
「ついこの間のことなのに」
 記憶を失ってから、新しい記憶として刻み込まれているはずの兄の記憶が、過去の兄を思い出していくにつれて、反対に薄れていくというのは、美奈の中にある兄の記憶と、見舞いに来てくれた兄は、同じ意識の中で共存できないものなのだろうか。
「まるで記憶が交錯してしまっているようだわ」
 それは元々の記憶の中の兄と、実際に見舞いに来てくれた兄とが、本当に同一人物なのだろうかという疑問を抱かせていることに他ならない。

 記憶を失った美奈だったが、身体の傷の方はすっかりよくなっていた。最初の頃は、交通事故のショックと、記憶を失ったことへのショックからなのか、それとも不安からか、食事もまともに摂ることができなかった。せっかく食べても、ほとんど嘔吐してしまう。そのうちに食事を喉に通すことが気持ち悪くなってしまい、食べることができなかった。栄養を摂るために、二十四時間二の腕に点滴の針が刺さっていて、腕がだるくてたまらない上に、身体を動かすこともできず、肉体的なことよりも精神的な回復にはかなり時間が掛かると思われた。
 最初は、記憶をまったく失っていたようだ。
 看護婦が医者を呼び、兄と名乗る男性がソファーで寝ていた時に回復した記憶は、実際には半分にも満たなかったが、完全な記憶喪失ではなかったと分かっただけでも、十分に嬉しかった。
 だが、本当にそうであろうか?
 記憶を失ったということは、思い出したくないことがあって、意識的に忘れてしまうということもあるという。
 要するに、自分の殻の中に閉じ籠ってしまうということだ。
 自分の殻の中に閉じ籠るのは、美奈の得意とするところではないだろうか。無意識のうちに、本能的に忘れてしまいたいことを封印したのであれば、それはまるで
「藪を突いてヘビを出す」
 というようなことをするのと同じではないか。
 医者は、簡単に記憶を取り戻させようとするが、本当にそれが一番本人にとって幸せだと思ってやっていることなのだろうか。そう思うと次第に医者も信用できなくなってくる。
「そういえば、お兄さん、あれから来なくなったわね」
 という、看護師さんの一言、この一言が、美奈に一つの疑念を感じさせた。
 元々、自分に兄がいることは記憶を失っていても意識として残っていた。そして、記憶が徐々に戻ってくるにしたがって、
「あれは、誰だったのだろう?」
 と、感じるようになっていた。
 もちろん、医者も看護師も彼のことを本当に美奈の兄だと思って疑わない。疑う理由もない。何しろ妹である美奈が、いくら記憶を失っているからといって、兄に対して、何の疑念も抱いていないように振る舞っているのだから。
 美奈が、交通事故のことを思い出したのは、最初の記憶が戻って、三日目のことだった。最初に記憶が戻ったと言って、興奮気味に医者を呼びに行った看護師だが、記憶喪失の人が、少しだけ記憶が戻ったというだけで、少し大げさなような気がする。
 だが、そこには理由があった。
 交通事故に遭い、ケガのほどは、さほど重体というわけではなかったのだが、ショックの方が大きかったようだ。
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次