辻褄合わせの世界
そのことを、兄は分かっているはずなのに、あの時の兄の表情は、見下ろすような表情というよりも、見下していた。
「お前は、一体何様のつもりでいるんだよ」
と言いたげな表情に、美奈は身体が竦んでしまって、起き上がることさえできなかった。兄を「他人」として感じた瞬間だった。
それから、兄の顔をまともに見ることができなくなった。そして、そのまま兄は姿をくらましてしまった。だから、美奈が兄を思い出す時は、どうしても見下された顔しか思い出せないようになっていそのため、兄の顔を思い出したくないという気持ちが作用し、記憶の欠落も手伝って、兄だと言われれば、少々似ていなくても、兄に見えてしまうのかも知れない。
交通事故に遭った時、運転していた人に見覚えがあると思ったのは。
「もしかして、兄ではなかっただろうか?」
という意識が頭を掠めたからだった。
恐怖を目の前にすると、見えなかったものが見えたり、見たくないものが違った形で見えてしまったりするらしいと聞いたことがあるが、
「見たいと思っている人が、恐怖の形で目の前に現れる」
ということもあるのかも知れない、
その時に一番思い出せそうだった人の顔をまったく予期していない形相で想像してしまったことで、その人のことを、二度と思い出せなくなることだってありえないとは限らない。
「俺は、君の兄さんから、言伝を持ってきたんだ」
「えっ?」
嘉村は、そう言って、兄の話をし始めた。
「君のお兄さんは、君たちの前から姿を消しても、君のことを一番気にしていたんだよ。もちろん、君の記憶が欠落していることも気になっているうちの一つなんだよ。でも、それ以上に、君に対してしてしまったことを後悔していた。悪かったって言っていたよ。その気持ちは本物だと思うよ」
「兄は今、どこにいるんですか?」
「君のお兄さんは病気で、今入院しているところなんだ。命に別状があるというわけではないんだが、どうにも時間がないようで、それを気にしていた。本当は会ってやってほしいという思いがあって、俺がここにやってきたんだ。これは君の兄さんの頼みではなく、俺の一存なんだけどね。本当は会いたいと思っているくせに、そのことは一言も口にしなかった。俺には、それが不憫に感じられるんだ」
「兄が私に会いに来れないのは、入院していて、身体を動かすことができないからなんですか?」
「それもあるけど、君のお兄さんは自分から会いに来てはいけないと思っている」
「そんな……。二人きりの兄妹なんだから、遠慮することなんてないのに、そんなに私に対して敷居が高いと思っているのかしら?」
「敷居が高いというよりも、お兄さん自身が、何か考えていることがあるようなんだ。今は放っておいた方がいいと俺は思っている」
兄は一体何を考えているというのだろう?
嘉村はそれから一言、
「君のお兄さんは、何か、自分が辻褄合わせをしているんじゃないかって気にしていたんだ。俺が『どういうことなんだ?』と聞いても教えてはくれなかった。お兄さんの中でもその答えが表現できないほど、あやふやなものなのかも知れないね」
「辻褄合わせというのは、私も頭の中に漠然としたものがあって、ハッキリとは言えないんだけど、私の思っている辻褄合わせと同じものなのかしら?」
一つ気になったのは、美奈が入院していた時に、兄だと言って現れた人。あの人の存在は、今のところ、自分にどういう意味を持たせるのか分からなかったが。
「ひょっとして彼の存在自体が辻褄合わせなのかも知れない」
と思うようになったが、考えてみれば、世の中の一つ一つを見つめたとして、どれだけの無駄だと思えることがあるだろうか。その中にいくつかは、辻褄合わせになるような存在があり、すべてが無駄なことではないとすれば、
「世の中も捨てたものではない」
と思うことができる。
美奈や兄が辻褄合わせと感じていることや、美奈の欠落してしまっている記憶も、無駄に思えることであっても、必要不可欠なものではないだろうか。
嘉村は、また話し始めた。
「俺は、時々、誰かの生まれ変わりなんじゃないかって思うことがあるんだ。俺が生まれた瞬間、ちょうどその時に息を引き取った人がいて、その人の魂が俺の中に一緒に入ってきたというイメージなんだ……。ということは、俺が生まれることが決まった瞬間に、その人は亡くなる瞬間が決まったのか、それとも、俺が生まれることが決まった時、俺に生まれ変わることのできる人間が決定したのか、どちらにしても、生まれてくる俺が、すべてのカギを握っていたんじゃないかってね」
「そのことを考えるようになったのは、いつ頃からなんですか?」
「中学の頃からだったと思うよ。その頃は、君のお兄さんの存在も知らなかった頃だからね」
「兄とはいつから?」
「ちょうど三年前くらいからだったかな? 彼は君のことでいろいろ悩んでいたようだ」
兄は、そんなに前から悩んでいたようだ。
「何に悩んでいたのかしら?」
「君のことを好きになってしまったって言ってたよ。その時に、自分の記憶が欠落していることに気が付いたようなんだけど、どこが欠落しているのかが分からない。それが辛そうだった。ただ、そのおかげで、自分の人生は辻褄合わせだっていうことを悟れたのはよかったと思っているようだ。俺も実は彼と似たような思いがあってね。同じように妹を好きになってしまった時期があったんだ。俺もビックリしたんだが、君は俺の妹にそっくりなんだ。顔や見た目がソックリというわけではなく、雰囲気や考え方が似ているような気がする。ひょっとすると、君の欠落した意識を、俺の妹が持っているんじゃないかって思うくらいになったんだ」
嘉村の目が、次第に男の目に変わってくるのを感じ、身構えてしまった美奈だった。
嘉村が話した兄の話が本当だとすれば、嘉村も自分の妹を好きになってしまったことで、二人は意気投合したのではないかと思えてきた。
嘉村の視線に厭らしさを感じると、嘉村がどれほど妹のことを好きになっていたか分かってくる気がする。怖いのは怖いが、そんな話を聞かされると、嘉村も可哀そうな男ではないかと思えてきたのだ。
そう思うと今度は、自分の兄が、嘉村の妹に対して、今、嘉村が自分に抱いている感情を持ったとすればどうだろう?
「兄を取られてしまう」
という感情になってきた。
まさか、兄が好きになる女性に対して、嫉妬しているということになるのであれば、自分も、本当は兄を好きだったということになるのではないか。
美奈は、混乱してしまった。
その混乱を招いたのは、目の前にいる嘉村と名乗る男性。
最初は、
「兄に似ている」
と思い、面と向かって話し始めると、
「そんなに似ていないわ」
と、感じた。
しかし、彼の口から兄の話が聞かされると、今度は、
「兄のようだ」
と、また感じるようになっていた。
短時間のうちに目まぐるしく相手への感情が変わってくると、どれが本当なのか分からない。しかし、それでも明らかにしなければいけないと思うと、どこかで帳尻を合わさなければいけなくなる。
「まるで彼の発想のようだわ」