辻褄合わせの世界
「ああ、信じてもらうしかないんだけどね。と言っても、今までこの話をして信じてくれたやつは、一人もいなかったよ。まあ、これも俺にとっての『人生の辻褄合わせ』のようなものさ、『帳尻合わせ』と言った方が、適切かも知れないけどね」
「あなたも、『辻褄合わせ』なのね?」
「そうだよ。俺たちに限らず、誰だって、大なり小なり、いろいろな辻褄合わせを抱えているということさ」
「それが、あなたの考え方なのね?」
「そうだよ。もちろん、俺の考えなので、強制するわけにはいかないけど、でも、俺の話を君なら信じてくれると思っている。今は頭が混乱しているだろうけど、冷静になって考えれば、少しずつ氷が解けるように分かってくるさ」
「私は冷静なつもりだけど?」
「冷静というのは、冷たいから冷静というわけではない。水面にまったく波紋がないだけが冷静じゃないんだよ。逆に年輪のように穏やかに揺れている場合も冷静と呼ぶ場合もあるし、表面上まったく揺れてなくても、底の方で何かが蠢いていることだってあるんだからね」
彼の話に、次第に引き込まれていくのを美奈は感じていた。
兄から話を聞いているような錯覚に陥っていた。兄もこういう話をするのが好きで、美奈は、兄がしてくれる話を聞くのが好きだった。
しかし、こういう話をするのは、兄とだけだという思いがずっとあったので、正直戸惑っているのも事実だ。どこか小賢しい感じを受けている馴れ馴れしいこの男に、兄を重ねて見るなど、そんな自分をあまりよく思っていなかった。
それにしても、この男が美奈の前に現れたというのは、本当に偶然ではないのだろうか?
声を掛けてきたのは彼だったが、彼が美奈のことを知っていたとは思えない。それなのに、まるで中学時代の自分を知っているような言い草は気になった。
ひょっとして、彼の中での記憶の欠落した部分を思い出すカギを、美奈が握っているのかも知れないと気付いたのではないだろうか。そのことを何かのきっかけ(この間のバーで見かけたこと?)で知り、美奈のことを少しだけでも調べたのかも知れない。それで待ち伏せして、もう一度自分の中で何かを確認したいと思ったのだろうが、彼の中で、美奈も記憶の欠落を意識していたことを知り、自分に優位性を感じたのかも知れない。
誰もが記憶の欠落した部分を持っているとしても、それを意識しているものなのかどうか、彼は明言していない。きっと、そこはあやふやな気持ちなのに違いない。
美奈は、彼が兄とどこかで繋がっているのかも知れないとも思っている。彼を見ていて、兄を意識してしまうのは、彼の雰囲気の中に兄を感じるからで、それは色というか、匂いのようなものを、感じるからではないだろうか。
兄が今どこにいるのか、とても気になっている。嘉村と名乗る男性が現れるまで、正直兄のことは意識していたが、気になっているというところまでは感じなかった。
いなくなった時は、
「お兄さんも、嫌になることはあるわよね」
と、いなくなったこと自体を不思議に思うことはなかった。それでも、次第に気にはなってきたのだが、ある日を境に急に気にすることもなくなっていた。
それなのに、また気になり始めたとすれば、美奈が交通事故に遭った時のことだった。
それまで、記憶の欠落について、おぼろげに意識していたが、なるべく考えないようにしていた。そして、事故の瞬間に、記憶の欠落が意識していたことすら忘れてしまったようだ。
それなのに、医者に指摘されて、最初は分からなかったが、次第に欠落した記憶があることを思い出した。
その時に兄を意識したのだが、まさか、兄と名乗る男が現れるとは思わなかった。
「もし、私の意識がしっかりしていて、兄じゃないと看破したとしたら、どうするつもりだったのかしら?」
それを思うと、かなりの確率で、美奈が彼を兄ではないと言いきれない何かを持っているのを分かっていなければできないことだ。
ひょっとして、見舞いに来た男性は、兄が差し向けた人なのかも知れない。
何かの理由で自分が出て行くことができずに彼を差し向けた。しかし、そんなリスクのあることを、引き受ける人間もよくいたものだと思う。
「兄に何か弱みを握られているのか、それとも、兄にしかできない何かを期待しているのか、少なくとも私の想像もつかないことが、二人の間に成立していたに違いない」
と、思っていた。
美奈の想像、いや、妄想ともいうべき考えは、とどまるところを知らなかった。
兄の行方を、嘉村と名乗る男性が知っているかも知れないと思う。本当なら、無礼とも思えるような態度の男性に対し、ここまで話に付き合うというのは、美奈の中で、何か探りを入れようという確固たる意志が存在していたからだ。
「本当なら、こんな人、相手になんかしないのにな」
と思ったのも事実。それも最初から感じたわけではなく、
「なぜ、こんな男の話に興味があるんだろう?」
という思いで最初は話をしていた。
それが、似てもいないように見えるのに、どうして兄を意識させられたのかということから、彼への興味が深まったことに気付くと、次第に想像を巡らせるようになった自分に気がついた。
それにしても、嘉村と名乗る男性が中学時代とほとんど変わっていないということを言いたいのだろうが、確かに彼の言う通り、美奈はまず自分が中学時代に戻り、中学時代の目で、彼の中学時代を想像しようとすると、今の彼からは想像もできないほどの少年が思い浮かんでくる。それは、冷静さというよりも、活発な少年である。
ということは、中学時代から今に至るまでの間に彼にはターニングポイントがあり、性格を変えるほど大きな何かが彼には存在したということになる。
そのことに探りを入れようとしているが、ふと、美奈は不安に襲われた。
「私は兄の消息を聞いて何をしようとしているのかしら?」
急に兄に対して、不安を感じた。
兄と二人きりになった時に何があったか。それを思い出した。
確かに兄の精神状態が荒れている時ではあったが、今の兄を美奈は知らない。ひょっとすると、自分の知っている兄とはまったくの別人になっているかも知れない。それを思うと恐ろしい。兄が自分から現れるわけではなく、嘉村と名乗る男を差し向けたのだとすれば、自分に会うことができない何か理由が存在しているように思ったからだ。
「兄に、誰か新しい女性がいたらどうしよう?」
美奈とは似ても似つかない女性。しかも、少しケバい女……。美奈は兄のそばに女性がいるとすれば、そんな女しか思い浮かばない。
別に清楚な女性が兄に似合わないわけではにないと思う。むしろ、清楚な方が似合っているのかも知れないが、想像すると、どうしても、清楚な女性ではありえない。
「自分以外は、似ても似つかない女性だと思うからかしら?」
と感じた。
しかも、兄とその女だけではない。まわりには人が何人かいる。集団の中の中心にいるのが、兄とその女だった。
「これって何なの?」
「今までの兄から、いかに遠い想像をするかという、イメージの限界を見ているようだ」
と感じた。
「私は、本当に兄が嫌いで拒否したわけではない」