辻褄合わせの世界
「そうなんだ。私はあまり細かいことまで考えたことなかったけど、漠然と、記憶を格納する場所は無限にありそうな気がしていたのにね」
美奈は、冗談っぽく話したが、兄は、それに表情を変えることなく、
「やっぱり、人間には無限なんて言葉はありえないんだよ。必ずどこかに限界があって、その限界に向かって近づこうとするのが努力なんじゃないかな?」
「でも、人間に限界はないっていう人もいるわ」
美奈にも無限などありえないと思いながらも、それでも、敢えて兄に聞いてみた。その時の美奈はどちらかというと、自分の意見というよりも、一般論としての質問に徹しようと思った。それが何を意味するのか自分でも分からなかったが、美奈は、この場で兄に自分の気持ちをいきなりぶつけるのは怖い気がした。
それは、この手の話は、この時が最初で最後ではなく、その後も機会があればすることになると思っていた。兄も話を一生懸命にしてくれるし、美奈も聞いていて飽きることはない。その時に結論など簡単に出るものではないことは分かりきっている。だから、今度話をする時まで、美奈の気持ちは抑えておこうと思ったのだ。
だが、兄の考えは少し違っていたようだ。美奈が話を一般論に挿げ替えようとしたり、分かりきっているようなことを、わざと反論して聞きなおしてみたりするたびに、興奮して反論してくる。美奈にはそれが面白かったのだ。
兄をからかっているつもりではなかったが、いつの間にか二人の話を客観的に見ている傍観者になっていることに気が付いた。
「お兄さん、お兄さんの話はよく分かるんだけど、限界ばかりだと、人間って面白くないんじゃないの?」
「そうかな? 無限を探すというよりも、自分の限界を知ることで、そこから派生するものを見つけることの方が、よほど人間らしいと思うんだけど?」
「人間らしい……」
「そう、人間らしいだよ」
人間らしいという言葉を、その時じっくりと噛み締めてみた。
「人間らしいって、どういうことなのかしら?」
すると、兄はゆっくりと話し始めた。
「人間らしいというのは、別にすべてに対して限界があるから、人間らしいという言葉を使ったわけではないんだ。たとえば、美奈は、動物の中で、人間が一番優れた種類だと思うかい?」
「間違いではないと思っています」
「そうだね、確かに総合的に考えれば、そうかも知れないね。でも、それって人間として考えるからそうなんであって、もし、他の動物に、感情などの感覚や、そして感性などいろいろ備わっていればどうなんだろうね? 逆にいうと、他の動物から言わせれば、人間は考えることはできるけど、他のことはできないと思っているかも知れないよ」
「それは感じたことがあります」
「だって、鳥は空を飛べることができるけど、人間は自力で空を飛ぶことができないでしょう? 確かに飛行機やグライダーなど空を飛べる道具はたくさんあるけど、しょせんは身体全体でコントロールできるわけではないので、鶏に適うわけはない。どうしてだか分かるかい?」
「いえ」
「鳥は、空を飛ぶのにいろいろ考えたりしないだろう。それは、空の上にいて当然だという感覚があるからさ。それを本能というのではないかな? 本能という意味で行けば、人間は、他の動物に比べて、一番劣っているものなのかも知れない。自然の摂理が存在しているとすれば、一番うまくその摂理に乗っていないのは、人間なんじゃなかな?」
「そうかも知れないわ。動物は自分の身を守るために持って生まれたものを必ず持っているものですものね。保護色にしても、ハリセンボンにしても、スカンクにしても、すべて身を守るための術を持っているわ」
美奈は、思いつく動物を思いつくままに言葉にした。
「ふふふ、確かに美奈のいう通りだ。しかし、今美奈が挙げた動物のラインアップはなかなか面白い。美奈の頭の中が見えてくるようだ」
「そんなに笑わないでください。私もお兄さんの話を一生懸命に聞いているとうう証拠でしょう?」
美奈はそう言って、ニッコリと笑い、言葉を続けた。
「でも、それと記憶とがどこで結びつくのか、少し分からないところが多いわね」
「そうだね、記憶にも限界があるというところからだったね」
「ええ」
「人間には限界がないというのは、どうして美奈は思うんだい?」
「学校で、そんな話を聞かされた気がしたし、ドラマなんかの影響もあるかも知れないわね」
「確かに、限界がないという表現をする方が、途中で何かに挫折したり、挫折しないまでも、いろいろなことで悩んでいる人には説得力があるかも知れないな。でも、それは自分の中で限界を感じた人になら、説得力はあるかも知れないけど、まだまだ限界なんて考えたこともない人間に対して、却って惑わせることになるんじゃないかと思うのは、僕だけなのかな?」
兄のいうことも分からなくもない。
「じゃあ、お兄さんは、一般論だと思っていることも、その人の立場や考え方によって、人から聞く話も吟味しないということを言いたいのかしら?」
「そこまでかしこまることはないとは思うけど、まったく何も考えずに話を聞いていると、そういうことになるだろう? それじゃあ、その人にとって、まるで『他人事』のように感じていると思われても仕方のないことだと思うんだ」
確かに兄の言う通りだった。兄は続ける。
「相手が他人事のように聞いていると、話している人から思えば、きっとそこから先は、その人からは本心は聞けないと思うんだ。それはその人の無意識の中にあるものなのかも知れないんだけどね」
兄の話を聞いていて、少し黙りこんでしまった。
美奈には、確かに人の話を聞いていて自分でも他人事のように感じていることが少なくはなかった。それは、他人事だというよりも、自分のことを客観的に見ているということだった。
美奈は、もう一人の自分の存在を時々感じることがある。
それは、姿かたちはまったく自分と同じなのに、まったく違った考えを持っている人。しかし、同じところもある。それが感性であって、人の話を一緒に聞いているとすれば、きっと同じことを思うに違いないと思うような存在だった。
だから、美奈は人の話を聞く時、もう一人の自分の存在を意識することが多い。それは本能的に作り上げる人物であって、一緒に聞いているつもりでも、感覚だけが、もう一人の自分に急に移っているのではないかと思うのだ。
その時、横にいるさっきまでいた自分がまるで抜け殻のようになっているのを感じる。
「これが、本当の自分?」
そう思った時、自分の中に感情も感覚もすべてなくなっているように思えてきた。
「一体、本当の私はどっちなの?」
と、思うと、急にもう一人の自分の頭の中に、忘れてしまったはずのものが残っているように思うことがある。
「そうだわ、私がお兄さんの話を聞いていて、限界があるというところに違和感を感じたのは、兄がもう一人の自分の存在を知らないから言える言葉なのだと思ったからだわ」
そう、兄はもう一人の自分の存在を知らない。
美奈が、もう一人の存在を知ったのは、いつのことだっただろうか?
中学に上がった頃だったような気がする。