辻褄合わせの世界
兄が、どこまでも皮肉を言っていると思った美奈は、却って素直になれない。どこまでも兄に逆らおうと思ったくらいだ。
「どうしてそんなこと言うの? 私はそんなつもりないのに」
「そりゃそうだろうな。もし、そんなつもりがあるんだったら、ここまで素直になんかなれるはずないからな」
「分からないなぁ」
兄が何を言いたいのか、いろいろと考えてみた。
兄は、唐突にお世辞を言ってみたり、人をこけ落とすようなことは言わない。そういう意味では、素直に想いを言葉にできるのは兄の方ではないだろうか。
「美奈が正直だって言ったのは、自分自身に正直だって言ったのさ」
「あっ」
言われてみれば気付くことがある。目からうろこが落ちたとは、まさにそのことではないだろうか。
「そうだろう? 人に言われて分かるだろう? そういうことって多いんだよ。特に美奈にはね。それがいいことなのか悪いことなのか分からないけど、人から言われてハッと思いたつことが多い人ほど、自分に素直に生きている人間なんじゃないかって思うんだ」
「でも、自分に素直なのかも知れないけど、他の人とは違うって思いながら、私は生活しているんだよ」
「そうだろうね、言い方を変えれば、自意識過剰なのさ。あまりいい意味で使われることのない言葉だけど、俺は違うことを思うんだ。自分に正直になれないやつが、誰に対して正直になれるんだろうってね。まずは、自分なんだよ。自分に素直な人が本当に自分を分かっているとは思わない。逆に分からない人が多いんだと思う。だから余計に自分を分かろうとする。そうなると、次第に素直ではなくなってくる。難しいところではあると思うんだけどね」
「お兄さんのお話、結構難しいわね」
美奈が分からないことを、兄は楽しんでいるように見える。そして、さらに楽しもうと、今度は理論責めにでもしようというのだろうか?
完全に美奈は、兄の手の平の上で弄ばれている。それを想像すると、何とも憎らしい限りだ。いくら逆らったとしても、抗うことなどできるはずもないのに、それでも兄の態度には、落ち着き以外の何でもないところを見ると、悔しさを解消することができない。
「我慢できないわ」
屈辱感がこれほど自分に対して、苦しみを与えようとは、想像もしていなかった。美奈にとって、我慢できないという感覚は、生理現象以外ではあまりないと思っていた。中学時代に入り、思春期を迎えた美奈だったが。中学を卒業し、高校一年生くらいまでは、その気持ちは変わらなかった、やはり変わったのは、好きな人を初めて意識した時だったに違いない。それまで異性に興味を持った時であっても、そこまで自分が大人になりかかっているという意識はなかった。やはり、本当に好きになる人が現れるという「結果」が伴わないと、実感できるものではなかったのだ。
兄は、本当に話をしていれば、目からうろこが落ちるようなことをよく話をしてくれる。
「あっ」
と思うようなことをいつも話してくれることが、いつの間にかあたり苗のようになってしまっていた。
「私は、兄に頼りすぎているのかしら?」
と思ったりもしたが、それ以上に甘えていることに気が付いた。
兄に、あまり甘えてはいけないと思いながら、つい甘えてしまう。
「お兄さん、ごめんなさい。また美奈は甘えてしまいました」
口に出して言ったことはなかったが、兄にはこの思いが分かってしまっているようだった。いつもニッコリと笑って、何も言わない。
「今さら、何も言うことはない」
ひょっとしたら、父親が一緒だったら、ここまで分からないのかも知れないと、美奈は感じた。兄であることが当たり前で、実際に同じ母親なので、血の繋がりはある。それを気にするあまり、却って兄の気持ちが分かるというのも皮肉なものである。
本当は、美奈が気にしすぎなところがある、兄は美奈の気持ちを分かっていて、わざと何も言わないのだとすると、そこは、年上であり、しかも慕われている兄であるという気持ちが強すぎることで、言いたいことも言えないのだとすると、兄にやはり甘えていることになるのだろう。
そんな兄だったが、美奈に対して、
「お前は、どこか記憶が欠落しているところがあるのかも知れないね」
と言われたことがあった。
「それはどういうことなんです?」
美奈が記憶に対して、初めて欠落という言葉を意識したのは、この時の兄の言葉からだった。
「記憶は喪失するものではなく、欠落するものだというのが僕の考えなんだけどね。ちょっと乱暴かも知れないけど、たとえば、赤ん坊の頃のことを覚えている人って、まずいないよね?」
「ええ、そうね」
「たとえば美奈は、いつの頃から記憶があるんだい?」
「そうね、ハッキリと意識らしいと言えるとすれば、三歳の頃なのかも知れないわね。確か、あの頃、ハチに刺された覚えがあるもの」
「うん、そうだね。何か強烈なイメージがあれば、その時の記憶が微かに残っているののだよね。でも、それは記憶というよりも、人から言われて思い出そうとするから思い出せるものだろう? ほとんど意識などしていないはずだと」
「確かに、そうかも知れないわ。ハチに刺されたという記憶はあるけど、痛さの記憶は残っていないものね」
「本当に子供の頃の記憶は、断片的であり、しかも何かを感じる時の感情、痛みを感じる感覚、それぞれにいろいろあるのに、美奈は感情は覚えているかも知れないけど、感覚の方を覚えていないんだろう? でもね、反対の人もいるんだよ。いや、むしろ、感覚の方を強く覚えている人の方が多いのかも知れない。そういう人は、逆に、物心ついた頃の記憶を、自分で覚えていると思っているはずなんだ」
「お兄さんもそうなの?」
「お兄さんは違う。美奈と同じで、感覚よりも感情の方をよく覚えているんだ。それがどういうことを意味するのかというのは、一口には言えないけど、美奈の今の話を聞いて、僕と同じだったことが嬉しく思うよ」
そう言って、兄はニッコリと微笑んだ。
「でも、私は時々思うんだけど、本当は、母親のお腹の中にいた時からの記憶というのを、本当は覚えているんじゃないかってね」
「それは僕も思うよ。僕は実は狭いところが怖いんだ。それはひょっとすると、母親のお腹の中にいる時の記憶が残っていて、『狭いところは怖い』という、感覚が残っているからなんじゃないかって思うんだ」
「でも、今お兄さんは、痛いとか身体で感じるものを感覚って言ったけど、怖いというのは、感情じゃないの?」
「いや、僕はそうは思わない。怖いというのは、痛みなどの感覚を条件反射として受け取った時に感じるものなので、感情ではなく、感覚に近いものだと思うんだよ」
「じゃあ、お兄さんは、お母さんのお腹の中にいた時の記憶が残っているっていうの?」
「そうは言っていない。お母さんのお腹の中の記憶は、残っていても、違う場所にあるんじゃないかって思うんだ」
「じゃあ、忘れていると思っているだけってことなの?」
「忘れているわけではなく、思い出す必要はないので、記憶の奥に封印しているだけだよ。そうじゃないと、記憶を格納する場所にだって、限界があるはずだからね」