辻褄合わせの世界
彼の雰囲気からすると、知っている人を見かけても、自分から声を掛けたりするタイプではないと思っていただけに、美奈には驚きだった。
「ああ、そういえば、この間の方ですね」
「いやだなぁ、顔を見ても思い出せなかったんですか?」
「ええ、私は人の顔を覚えるのが苦手で、しかも、面と向かってお話をしたわけでもなかったので、すぐには思い出せなかったの。ごめんなさいね」
彼は、少し馴れ馴れしそうに話しかけてきたが、なぜか煩わしさは感じなかった。一人でボーっとしていただけに、声を掛けられて少し新鮮な気持ちになったのも事実で、今度は彼の顔を穴が空くほど見つめていた。
――こんな男は、きっとナンパな人なんだろうな。適当にいなしておけばいいか――
と思い、最初適当にいなしておけば、今後どこかで出会っても、無視することができるだろう。この手の男は最初が肝心、ちょっとでもいい顔してしまうと、自惚れに走ってしまい、ありもしない自分の感情を勝手に作り上げられてしまう。それだけは避けたかった。そんなことは愚の骨頂であって、少なくともそこまで分かっていて、過ちだと思うような方向に向かうはずはないと思っていた。
要するに、美奈は最初から相手にする気などなかったのだ。
しかし、無下にするのは、性格的に自分が許せない、自分がされて嫌なことは、人にもしたくないという考えがあり、それをいつも心掛けていた。
すると、彼はそれを見越したかのように、話し始めてすぐくらいに、
「人にされて嫌なことを、自分がしたくないと思っていることってあるでしょう?」
その言葉を聞いて、思わず彼の方を直視して、目を見開いて、目を見つめた。彼はニコニコしながら、こちらを見ている。
完全に見透かしていることを確信しての余裕の笑顔なのか、もしそうだとすれば、美奈は少し悔しい気がした。これだけたくさんの人が蠢いているのだから、中には想像もつかないようなことをする人が出てきても不思議ではない。相手の気持ちを分かるくらいのことは朝飯前だという人が、本当はそのあたりにはゴロゴロしているのかも知れない。
美奈はなるべく平静を装い、彼に自分の考えの奥を覗かせないようにしようと思った。それにはさりげない返事しかない。
「そうね、私にもあるかも知れないわね」
差し障りのない、ハッキリとしない返事が、この場合は有効ではないかと思えた。
「でもね、それって結局は、相手にとって失礼に当たることもあるんじゃないかって思うんだ」
一瞬、ムカッときたが、何とか堪えて、さらに曖昧な気分になり、
「へぇ、そうなのね」
きっと相手はバカにされたと思うかも知れない。一生懸命に話しているつもりであれば、余計にバカにされたと思うだろう。
しかし、この男が相手であれば、別にいいと思った。別に深い仲になるわけでもないし、適当にいなしておけば、それでいいだけだったからだ。
いつも一人でいると、一人がいいと思うようになるのと同時に、煩わしさから解放されたいというのが、一人がいいという一番の理由だということに気付く。
人と一緒にいることが煩わしさに繋がるなど、他の人は考えたことがあるのだろうか?
煩わしいことは、孤独を感じる人以外でも感じることがあるはずだ。
「煩わしいわね」
と、口にする人ほど、まわりに人が集まってきたりするからだ。
その人たちが口にする「煩わしさ」というのは、
「まわりにいる人の中の誰か」
ということになるのではないだろうか。
その意識がないから、まわりの人に対して、
「煩わしい」
という言葉を口にできるのだろう。
その男は、しつこめだった。
普段なら完全に無視するところなのに、どうして相手をしてしまったのか、その男性の顔が、兄に似ていたからだ。
この間、お店の中でも、
「兄に似ている」
と、少しだけ感じたが、それは、兄と雰囲気が似ていると感じたことだった。会話の主導権は年配の男性が握っていたので、彼は、目立たないようにしていた。あるいは、猫を被っていたのかも知れない。猫を被っていたとしても、その時の美奈にそれを見抜くのは難しかっただろう。あの店は、感じたことを素直に受け入れることのできる雰囲気の店ではなかったからだった。
雰囲気だけを感じることができたのは、どうしても、カウンター席という特徴上、横顔しか見ることができないからで、あくまでも雰囲気に兄を感じたから、横顔にも兄の雰囲気を感じただけで、本当は似ても似つかない人ではないかと思わせた。ただ、前をじっと見ている時の顔は、以前兄と食事に行った時、横に座ったことがあったが、その時に感じた雰囲気と似ていることは似ていた。以前に感じた人の雰囲気は、欠落した記憶の中に含まれているわけではなかった。
しかし、今度は面と向かって話をしている。表情は隠しようがない。細かいところは微妙だが、全体的には本当によく似ている。それだけに、表情によっては似ている時と似ていない時の差がハッキリ出ていて、
「この人は兄ではないわ」
と、他の表情がどんなに見紛うかと思うほど似ていたとしても、その一回感じたことだけで、兄ではないということは、自分の中で確定させるに十分だった。
兄ではないと分かると、明らかに怪訝な態度が顔に出る。それが美奈の性格であり、人から、
「性格ではなく、性悪なんじゃないの?」
と皮肉られたことがあったが、まさしくその通りである。
美奈に対して、まわりの反応は人それぞれ、
「面倒見がいい人ですよ」
という人もいれば、
「あんな淡白な人、見たことない」
という人もいる。
それだけ両極端な態度は性格にも表れている。美奈は相手によって態度を変えるが、相手も美奈だけ特別の対応をするという人もいるだろう。
美奈は、自分が二重人格だと思っているが、まわりの人で美奈のことを二重人格だと感じていない人の方が多いようだ。
二重人格というよりも、裏表がハッキリとしていて、思ったことを口にしたり、すぐ態度に表す。喜怒哀楽も激しく、性格的にきつさが前面に押し出される。そのせいからなのか、
「姉御肌」
として、美奈を慕う人もいるようだが、美奈はそのことを知らない。もし知ったとすれば、
「私は、そんな面倒なことは嫌いだよ」
と一蹴されるのではないかと思うことで、慕っている人の口からは、そのことを言い出すことはない。
そんな美奈のことを一番分かっているのは、兄だった。うまく子供の頃にはコントロールしてくれていたおかげで、敵を作ることはなかった。その思いがあるからこそ、兄を慕う気持ちが生まれていたのと同様に、自分が姉御肌であるということも認識できた、だからと言って、できることとできないことがある。何でも引き受けられるほど、キップがいいわけではない。
美奈の顔を見ると、
「お前は、本当に素直に生きているよな」
と言って、羨ましがっていた。
「何でよ、私はいつも逆らってばかりじゃない。自分でも分かっているから、時々そんな自分が嫌になることがあるのに」
「それはそれでいいのさ。自分で嫌になるくらい、素直になれれば立派なものさ」