辻褄合わせの世界
その日は、飲んでもいない頭痛薬で、痛くもなかった頭がスッキリしてくるようなイメージを持っていた。スーッと気分が落ち着いてくるのを感じると、今度は風がさっきに比べて冷たく感じられるようになった。
寒いというところまでは行っていないが、寒さを感じることもできない自分が、今普段の自分なのかどうか、疑問に思うことで、公園のベンチに座っている時間が、もう少し長引くように思えてならなかった。
「ミャー」
「うわぁ」
足元を見ると、いつの間にか一匹の猫が寄ってきていた。尻尾を立てたかと思うと、ゆっくりと萎えてくる様子が、何ともしなやかに見え、今の美奈にはない、落ち着きのようなものを感じさせた。
美奈は、本当は猫よりも犬の方が好きだった。猫が強かなのを知っているからなのだが、子供の頃に引っかかれた記憶があったからだ。
せっかく可愛がってあげようと思っているのに、いきなり引っ掻かれた。しかも、その時まわりにいた友達皆から笑われた記憶があった。
家に帰れば、
「何、あんた猫なんかの相手をしたの? それでケガを? バカじゃないの?」
と、母親から、これ以上ないというほどの罵声を浴びせられた。
その時は知らなかったが、母は猫が嫌いだった。なぜ嫌いなのか分からなかったが、母の性格からすれば、そうなのかも知れない。
母は、猫に似ていた。人に媚を売ることを、何とも思わない。そのくせ、自分の家族には厳しい。自分に甘く、まわりに厳しいなんて、これ以上わがままな性格もないものだ。
そう思うと、母を嫌いになったのと同時に、猫も嫌いになった。その分、犬を好きになったのだが、考えてみると、猫も災難だ。勝手に思いこまれて、嫌いになる口実にまでされたのだから。
母を嫌いになった理由は、父を嫌いになったことから始まっていた。
父は、本当に子供が嫌いな人のようだ。
大人が子供を叱るのは、子供が悪いことや、理不尽なことをしたから叱るのだと頭で分かっている。父は、子供が悪いことをしようがしまいが、自分の気がむしゃくしゃしていれば、酒の力に任させてなのか、お決まりの怒りが飛んでくる。そこにモラルや理性は感じられず、自分の感情に任せた怒りがあるだけだ。
子供はそういう理不尽な怒りには敏感だ。子供だからこそ、敏感なのかも知れない。
そんな父に対して、理不尽だと思っているのかいないのか、母は逆らうことをせず、何も言わない。そして一人になった時、それまでの鬱憤を晴らすかのように、子供に当たるのだ。
「父も父なら、母も母だ」
と思うが、単純に比較できないところがあるように思う。
そんな父に対して、母は憎しみを感じている。
では父は母に対してどうなのだろう?
同じく憎しみを持って対応しているように見えるが、同じ憎しみでも特徴の違うものだ。母の憎しみは、明らかに父に向けられているものであるが、それを悟られないように子供に当たっている。しかし、父の感じている憎しみは、誰に対してというわけではなく、漠然と憎しみが身体の中から湧いて出てくるようだった。
「こんな憎しみ方なんて、今までに感じたことがない」
まだ、子供だったから、信じられないものを見たような気がしていた。
「母親の先に見えているのって、何なのかしら?」
母親は父親を明らかに憎んでいるが、父親の背中だけを見ているような気がしない。その先に何かが見えていて、見えるものを怖がっている気がしてきた。そのため、自分が虚勢を張ることで、父親に対して、少なくとも相手に優位性を持たせようとは思っていないのだろう、
それだけ、奥が深いのか、先を見ているのか、何か、自分たちには想像もできないものを心の奥にしまい込んでいるようで、恐ろしくなる。美奈は憎しみを感じながら、恐れも感じながら、その中で、また違った感覚を、父には持たなければいけないのだと思うのだった。
母親が見ているのは、ひょっとすると父親の背中ではないのかも知れない。父親を憎んでいることで、父親と同じでは嫌だという考えが芽生えているのだとすれば、父親の見ているものとは違う何かを探しているように思う。それが見つからないことで苛立ちを覚え、子供たちに当たっているのだとすれば、いい迷惑ではあるが、その何かを母が見つけたとすれば、それは、家族が家族でなくなる瞬間なのかも知れないと思った。
元々、家族だなんて言える間柄ではなかったように思う。皆それぞれ勝手なことを考え、自分が一番正しいという考えを持っているのだとすれば、家族なんて、最初からいらないのではないかと思えてきた。
ある意味、皆それぞれ自分を想っているのだから、
「同じ考えを持っている」
と言えないこともない。
だから、喧嘩になっても、憎しみ合っていたとしても、そこに相手に介入しようとする気持ちはない。それはそれで、悪いことだとは思わなくなってしまった美奈は、きっとまわりから、捻くれた性格だという風に見られているに違いない。
「記憶を喪失したわけではなく、欠落したというのは、他力ではない、自分の中から記憶をわざと欠落させようとする意識が働いているからなのかも知れない」
と感じた。
美奈は、孤独を怖いと思わない。寂しいとも思わない。一人でいることが孤独なのだとすれば、それは至極当然のことであり、他の人が、
「一人でいるのは寂しい」
と言っている意味が分からない。
だからといって、一人でいることを寂しいと思っている人が、甘い考えだなどとは思わない。
「他人は他人。それでいいんじゃないかな」
と思うだけだった。
ここで他人のことをとやかくいうことは、孤独を至極普通のことだと思うことと、矛盾を生じると感じる。美奈は孤独を、
「自分は他の人とは違う」
という位置づけの証明にしようと思っているのだ。
孤独を怖いと思わないのに、夢を見て、怖いと思うことがあった。
それは、もう一人の自分が出てくることだった。
もう一人の自分から見つめられることを、怖いと感じるのは、自分が自由でありたいという願望から来るものなのではないかと、最近になって考える。逆に言えば、自分が自由だとは思えないから、自由を求めるのであって、その感情が、夢の中で、
「自分の一番怖いもの」
として、表現しているのかも知れない。
美奈が犬よりも猫の方が好きになってきたのは、孤独を怖いものだと思わなくなってからのことだった。
一人でも生きていける動物の代表として、猫をイメージした。確かに人間に媚びてエサを貰おうとするが、だからと言って、人間に堕ちるわけではない。媚びているように見えて、実は相手を見下しているような雰囲気に、美奈は気高さすら感じる。
猫が寄ってくるのを見ると、以前は気持ち悪がったものだが、今では可愛く思える。
「お前も孤独なんだな」
と、声を掛けると、
「ミャー」
と言って目を細め、喜んでいるように感じるからだ。寄ってくる猫の方も、他の人を相手にするのと、美奈を相手にするのとでは、かなり違っているのではないかと思える。
「お前から見た私は、どんな風に写っているんだろうね」
と、猫に語り掛けるが、猫は構わずに、足元ですりすりしているだけだ。
「ふふ」