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辻褄合わせの世界

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「私は、一体どうしたのかしら? 病院のベッドにいるのは、交通事故に遭ったからだということは分かったのに、その時の心境を思い出そうとすると、意識が記憶を拒否しているようだわ」
 と思った。
 それは、自分が母親に対して抱いている嫌悪感に比例しているように思えたからで、嫌悪感が、恐怖心として欠落した記憶の中で残ってしまったことが大いに影響しているのかも知れない。
 記憶の欠落が、自分の嫌な部分だけを欠落させてくれているのなら、幾分か気も楽になるというものだが、実際には、嫌な部分が残っているのも事実だった。
「いや、その考えは少し違っているのかも知れないわ」
 美奈は、自分でも臆病だと思っている。特に「恐怖症」と名のつくものは、ほとんど苦手である。
 高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症、それぞれに理由があるが、今回自分が臆病だと感じたのは暗所ではないだろうか。
 目の前にあって、それが見えない。これほど怖いことはないのではないだろうか。
 母親に対して嫌悪感があることは、前々から分かっていたが、嫌悪感が恐怖に繋がるとは思わなかった。今まで嫌悪感はあっても、恐怖は感じたことがなかった。
「嫌悪感というのは、恐怖が胸のうちにあれば、存在しえないものではないかしら」
 と思っていたからだ。
 人を嫌いになるのに、相手に恐怖をいちいち感じていては、キリがない。
 美奈が母親に抱いた恐怖心を、それ以前に、誰かに抱いていたことを思い出していた。
「お兄さんにだわ」
 彼女にフラれ、美奈に襲い掛かろうとした時の、兄にだろうか?
 いや、違う。あの時の兄ではない。あの時の兄は、どうかしていた。どうかしていた相手に対して恐怖心を感じても、時間が過ぎれば頭の中で風化してくるものだ。
 しかし、それ以外で兄に恐怖心を感じたという意識はない。
「これが記憶の欠落がもたらした影響なのかも知れないわ」
 意識の中にない記憶が、時々目を覚ます。
 記憶というのは、その場を支配した意識が、忘れたくないという本能の中で、自分の中にある装置を使って、決められた場所に格納されることをいうのだと思っていた。つまり、意識が存在しなければ、記憶も存在しない。記憶が存在するということは、意識の存在を意味することになる。
 それなのに、意識したこともないことが記憶として残っているということは、意識自体が記憶として残っていることで、記憶が一つのものとして成立するのだと考える。そのうちの意識だけがなくなってしまえば、記憶の方も自然消滅するだろう。
 普通なら、記憶だけが消えてしまい、意識だけが残っていることで、
「忘れた」
 という気持ちになるが、意識の方が先に消えてしまえば、忘れたという意識もなくなってしまう。
 ただ、何かが存在したことだけは確かである。その思いが、
「記憶の欠落」
 として、美奈の中に残っているのだ。
「忘れたということと、記憶の欠落では、まったく意味が違っている」
 と感じる。
「記憶喪失ではなく、記憶が欠落している」
 というのは、そのことを本能で悟っていたから、決して、記憶喪失だとは、美奈の口から出てくることはなかったのだ。
 では、兄のいつに恐怖を感じたのだろう?
 それは、兄とは異父兄妹であることを知らされた時だったのかも知れない。
 美奈は、少なからず兄に憧れを持っていた。
 血の繋がりさえなければ、好きになっていたに違いない。
 そんな時、兄とは、父親が違うと気付かされたのだ。誰に聞いたわけでもないのに、そのことに気付いたのは、本能的なものだったのだろうか?
 いや、そんなことはありえないと今でも思う。やはり誰かに教えられたのだ、
 しかし、言葉に出して教えられたわけではない。そんな記憶は残っていないからだ。記憶にともなう意識もなかったが、それも記憶の欠落から起こったことではないのは、分かっていた。
「教えられたとすれば、兄から以外には考えられない」
 それが美奈の結論だった。
「兄は、知っていたんだわ。そして、本当は私にも教えたいと思いながら、妹を苦しめることになるのを恐れて言葉には出さなかった。でも、本心は知ってほしいと思っているという気持ちのギャップが、兄に言葉にできないまでも、態度や雰囲気で教えようとする態度を、妹として読み取ったのかも知れない」
 そして、兄には、自分がそのことを分かったと悟らせないようにしなければいけない。今度は立場が反対だ。
 いや、兄は妹が知らないものだとして接している。妹は、自分が知ってしまったことを兄に悟られないようにしている。お互いに気を遣っていることだが、兄は、きっと何も気付いていないだろう。
 そう思うと、辛い思いをしているのは、兄よりも美奈の方である。
「きっと兄は、自分の方が辛いと思っているに違いないわ」
 今までの兄であれば、それでもよかった。
「お兄さんのためなら、何でもできる」
 とまで思っていた。
 それは同じ父と母から生まれた兄妹だと思っていたからで、父親が違うということが、これほど意識の中で、相手への気持ちを一変させるものだなどと、思いもしなかった。
 美奈の父親は、ほとんど家にいなかった。正直、いい父親、いい夫だったという意識はない。母とはいつも喧嘩をしていた。金にだらしない父は、いつもギャンブルをしては、母親と喧嘩になったのだ。そんな父親が、本当は自分の父親ではなかったということで、兄とすれば、
「どうしてあんな人を父親と呼ばなければいけないんだ」
 というジレンマがあっただろう。美奈とすれば、
「兄は、あんな父親の子供ではなかっただけでも、羨ましい」
 という気持ちになっていた。それは、美奈が兄に逃げられたような感覚に陥ってしまったからに違いない。
 兄の気持ちからすれば、最初の父親がどんな人だったかということも分からずに、血も繋がっていない、しかもろくでもない男が、父親面しているのだから、溜まったものではないだろう。
 母を憎んでいるかも知れない。ひょっとすると、美奈のことも憎んでいるのかも知れない。そうでなければ、いくら父親が違うとはいえ、彼女にフラれたくらいで、美奈に襲い掛かってくることはないだろうと思っていた。まだまだ男心を知らない美奈にとって、兄の行動は、平面で結んだ線の上でしか理解できないようだった。
 兄が家を出た本当の理由、それを美奈は知らない。たぶん、分かることはないだろう。自分のことが原因かも知れないとは思っても、自分のことが原因であるなら、それ以上詮索することができないからだ。
 もし、自分のことが原因であれば、兄に襲われた時、拒否してしまったことで、兄に嫌われた。あるいは、憎まれているのではないかと思うからだ。それは母親のことともダブって考えてしまい、きっと母親のことを考えた時、自分では収拾をつけることができなくなるのではないかと思うからだろう。
 逆に、兄が美奈のことを今でも好きだった場合も考えられる。一緒にいるのが辛くて、家を出ていった。それであるなら、本当に美奈は罪作りと言ってもいいだろう。
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次