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辻褄合わせの世界

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 と感じたのは、自分が思っていたより、時間があっという間だったことが一番の原因だった。
「僕も、似たような話を聞いたことがあります。それは、一年前より、もっと前のことだったと思うんですが」
 と、青年は話し始めた。
 年配の男性は興味深げに青年を見つめている。自分も事故を目撃し、不思議な感覚になっていたのだから当然であろうが、実際に交通事故に遭った当人である美奈は、さほど興味深い感じがせず、逆に他人事のように聞いていた。
 青年は、おもむろに話し始めた。
「確か、三年くらい前だったと思います。これは本当に事故ではなく、殺人未遂だったんですが、ある女性が、他の女性を道に突き飛ばして、ケガをさせたという事件があったんですよ。もちろん、被害者も加害者も知り合いだったわけですが、被害に遭った方は、完全に拍子抜けしていて、どうして自分が突き飛ばされなければいけないのか、分からないようでした」
 年配の男性が口を挟む。
「確かに、自分の知らないところで恨みを買っていたりするものだからね。親友だと思っていても、少しでも嫉妬心が湧いてくれば、それが恨みに変わってしまうこともある、それを思うと、恐ろしい気がするけどね」
「そうですよね。いつ誰に突き飛ばされるか分からないと思うと、怖い気もします。これが、それほど仲がいい相手でなければ、そこまでの憎しみというのは湧いてこないものだと思います。だって、その人にとって、誰かを突き飛ばすということは、完全に捕まることを覚悟の上でするわけですから、あまり自分に関わりのない相手のために、そんなリスクは負いたくないですからね。そんなに仲が良くない相手であれば、その時は理由の方が気になるところですね」
「恨みというのは、本当にその人にしか分からないことが多いからね。実際に恨まれている方には、そんな意識がないことが多い。だから、突き飛ばすにしても、容易なことだったりするのかも知れないね」
 二人の会話は、美奈にも納得のいく内容だった。しかし、だからといって、それが正しいというわけではない。理屈は分かるが、それを正当化してしまっては、理不尽がまかり通る世の中になってしまうのではないかと思えた。いい悪いの問題ではなく、人間関係の問題に的を絞ることが果たしてできるのだろうか?
 美奈は、二人の話を聞いていると、
「私もひょっとしたら、本当に誰かに突き飛ばされたのかも知れない」
 と思った。
 しかし、その時、まわりには比較的人がいたはずだ。もし、突き飛ばされたのだとすれば、目撃者がいてもおかしくはない。それなのに、
「誰かが突き飛ばした」
 などという話は一切聞かれなかった。警察から、そんな尋問を受けたわけでもないし、そんな話がどこかから洩れてくることもなかった。
 だが、二人の話を聞いているうちに、あの時、背中に違和感があったことを思い出した。誰かに突き飛ばされたのだと言われると、
「その通りかも知れない」
 と、納得できてしまう。
「人に恨みを買うようなことなどないわ」
 と、一刀両断できればいいのだが、どこで誰に恨まれているか分からないと思うと、ハッキリ断言できない。しかし、公衆の面前で、突き飛ばされるほどの恨みを買っているとはどうしても思えない。この気持ちのやり場をどうすればいいのか、美奈はしばらく悩んだ。
「そういえば、確かあの日……」
 母親に似た人を見かけた。
 美奈が家を出てから、実家にはしばらく帰っていなかったので、本当にそれが母だと言いきれない。むしろ、見間違いだと思う方が、十分に確率が高かった。
 兄の顔も、母の顔も忘れかけていた。父の顔など、とっくの昔に眼中になかったが、母と兄の顔は、十分に覚えていた。
 元々、ずっと一緒にいた人でも、環境が変わって会うことがなくなると、すぐに相手の顔を忘れてしまうことが多かった。人の顔を覚えるのも苦手で、一度や二度会ったくらいでは、なかなか相手の顔を覚えられなかった。
「私には、覚えられないんだ」
 という自己暗示も手伝って、余計に覚えることができないでいた。
 二人の男性の話は、美奈に影響を与えたが、話を聞いているうちに、次第に他人事のように思えてきた。
 最初、若い男性を、
「兄に似ている」
 という印象で見たことで、親近感が湧いてきて、話している内容が、いかにも自分のことのような錯覚を覚えさせたのだが、よく見てみると、若い方の男性が、兄に似ているのが自分の錯覚に思えてきた。
「交通事故の話が、私の経験と被ったことも大きな影響だったのかも知れないわ」
 と感じた。
 自分の経験と被ってくる話をしている相手に対して、親近感が湧いてくるのは無理もないことだ。
 他人事だと思えてくると、美奈も思わず口を挟みたくなってきた。
「人に恨みを買うのって、そんなに頻繁にあることなんでしょうか?」
 いきなり話に入ってきた美奈に対し、一瞬訝しげな表情をした年配の男性は、
「結構あるかも知れないけど、人を突き飛ばすほどのことは、よほどでなければありえないと思うよ」
 と話した。
「俺もそう思う。そんなに頻繁にあったら、警察や病院はいくつあっても足りないからね」
 ただ、それは一般論だ。人の心に戸は立てられない。犯罪を犯す人間を、一般論で当て嵌めていいものなのか、考えものだった。
 美奈は、その時、確かに誰かを追いかけていたような気がした。それが母親に似た人だったのかも知れない。その時のことを思い出すと、母親の顔というよりもイメージが思い出させる。シルエットに浮かぶその人の顔はハッキリとしないが、母親がイメージされていることには違いなかった。夜の街の車のヘッドライトに照らされて、その人が振り返った時、母親だと感じたのは間違いない。
 その人を追いかけるように駆けだした時、どうやらそのまま、道路に飛び出してしまったようだ。
 その時、運転席に見えた顔。一瞬だけだが母親に見えた。恐怖の中で思い浮かんだ顔が母親だったのかも知れないが、瞬きをする間に、その顔にシルエットが掛かってしまった。そして、まるで魔法に掛かったかのように、母親の顔が、美奈の意識の中から、スーっと消えていくのを感じた。
「母親の顔を思い出すこともないかも知れないわ」
 と、思うと、そのまま意識が遠のいていくのを感じた。
 気が付けば病院のベッドで寝ていたわけだが、そこまでの意識は、気が付いてからすぐにはあったようだ。そして意識がハッキリしてくるうちに、その記憶が薄いで行く。それはまるで夢に見た内容を、目が覚めるにしたがって、忘れていくかのようだった。
 病院のベッドの上で、天井を眺めていた時、母親の顔が浮かんできたのは確かだった。すぐに記憶と同じように薄らいできたが、目を瞑ると、瞼の裏に浮かんでくるのだった。
 怖くなって目を開けると、もうそこに母親の影はない。しかし、目を瞑るとまた浮かんでくるのだ。半日は、その繰り返しだっただろうか。目を瞑るのが怖かった。
 美奈が自分の記憶が欠落していることに気付いたのは、ちょうどその頃だった。
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次