辻褄合わせの世界
父親よりも、母親の方がアッサリとしていた。まるでいなくなってせいせいするとでも言いたげな態度に、美奈も家を出て行きたいと思うようになっていた。
実際に家を出て行こうと計画はしていた。しかし、その計画が脆くも崩れ去ったのが、この間の交通事故だったのだ。
「家を出ようなんて考えたから、バチが当たったのかしら?」
と、思ったが、何もバチが当たるようなことを考えていたわけではない。
「親は、どうせ私たちがいない方がいいんだわ」
と、考えてみたが、これほど、虚しいものはない。親から相手にされていないと気付かされたことへの虚しさではなく、今までずっと生きてきて、ずっと変わらない状態が続いてきた虚しさだった。
つまり、ずっと家族の誰がいなくなったとしても、悲しんだり、悔やんだりなどしない環境だったということに、まったく気付かなかった自分に、虚しさを感じるのだ。
結局、兄を探すということを誰もしないまま、一年近くが経っている。その間に美奈が交通事故に遭ったのだが、この時も母親が世話を焼いてくれたが、それも、ただの義務的でしかなかった。
兄がいなくなった時のことを覚えているからなのだが、家族に対しての冷めた気持ちが、自分の中の記憶を委縮させたのかも知れない。
それにしても、見舞いに来てくれた兄と名乗る男性だが、今でもその人が誰だか分からない。
兄の顔は完全に思い出したので、あの人が兄でないことは、分かりきっていることだ。
それなのに、最後まで兄のつもりで美奈は相手をした。彼も、美奈を本当の妹のように接してくれた。
「本当にこの人が兄だったらよかったのに」
と感じた。
本当の兄とは似ても似つかないタイプの男性で、しっかりしているように見えるが、どこか抜けているところを持った、
「三枚目」
と言える男性だった。
だが、以前にどこかで会ったことがあるような気がするのは、今も変わっていない。印象深く記憶に残っているのに、いざ思い出そうとすると、意識が思い出すことを拒否しているのか、思い出すことができない。
退院する少し前から、急に彼はやってこなくなった。それまでは、毎日のように来てくれていたのに、急に来なくなったことに対して、
「おかしいわね」
と、看護師さんも話していた。
看護師たちの間では、彼は人気があったようだ。
「私の理想の男性が、少し変わってきたのかしら?」
と思うようになった時、今度は、兄と名乗る男性の顔の印象が薄れてきた。
しかも、それまで思い出すことができたはずの兄の印象まで曖昧になってきた。
「私の記憶がまた薄れてきたのかしら?」
と、思ったが、それ以外の意識はしっかりしているのだ。
ただ、感じたことは、
「思い出したくない人の顔はハッキリと浮かんでくるのに、思い出したい人の顔がおぼろげになってきて、次第に消えていきそうで怖い」
という感覚になってきていた。
美奈は、今まで好きだと感じていた兄の顔がハッキリしなくなったことで、自分の理想の男性が分からなくなってきた。しかし、見舞いに来てくれた男性、彼が誰だか分かっていないが、それでも心に残る彼が、気になっていた。
久しぶりにやってきたバーのカウンターに座っている一人の男性、彼が見舞いに来てくれた人に似ていることを思い出していた。彼の方は、美奈の顔を見て、驚く様子もないので、本人だという可能性は低いが、美奈は彼の顔を見ているうちに、次第に引き込まれてくるのを感じるのだった。
兄が自分に対しての恋愛感情を抑えられず、結局自分の前から姿を消すように、急に出て行った時のことを思い出していた。
隣に座っている見舞いに来てくれたと思しき青年と、年配の男性は、普通に話をしていたが、その話の内容も、どうやら、一年前のことのようだった。兄のことを思い出していた美奈だったが、その間、掛かった時間がどれほどのものだったのか、考えていた。
「結構、時間を掛けて思い出していたように思うのに、あっという間だったんだわ」
と感じたのは、隣で話をしている二人の一年前と思しき会話が、まだまだ続いていることだった。
美奈は兄のことを思い出しながら、隣の会話に聞き耳を立てていた、思い出しながら人の会話を聞くなど、普通ならできっこないはずなのに、なぜか、その時はできたのだ。それだけ隣から聞こえてくる会話は、美奈には無視できるものではなかった。
考え事をしながらだったので、会話をすべて把握できたわけではないが、その中でも印象的だった会話は、しっかりと意識できていた。
「ちょうど一年前だったかな? わしはこの先の大通りで、交通事故を目撃したんだ」
と年配の男性が、青年に話しかける。
「大事故だったんですか?」
「一見、大事故に見えたけど、その時の被害者は、それほど大きなケガではなかったんだ。それでも交通事故なので、救急車は出動して、そのまま被害者は、病院に運ばれたんだ」
「被害者というのは?」
「顔まではハッキリと見たわけではなかったんだが、まだ若い女性だった。二十歳過ぎくらいではなかったかな?」
「その事故が何か、印象に残ってるんですか?」
「ああ、その事故というのが、どうやら、事故ではなく、作為的なものではなかったかと思ってね」
「それは、どうして?」
「これもハッキリと見たわけではないし、警察も事故で処理したようなので、何とも言えないけど、後ろにいた誰かが、突き飛ばしたように見えたんだ」
「えっ、それじゃあ、殺人未遂ということになるじゃないですか?」
「それが本当ならね。でも、ハッキリと見た人はいないし、ただ、野次馬の中に、一人だけそれを主張する人がいたんだけどね。その人は、二十代後半くらいの男性だったんだ。最初は、警察が来るまで、結構興奮しながら、『あれは、事故じゃない。誰かが突き飛ばしたんだ』って主張していたんだけど、いざ警察が来ると、今度は急に黙ってしまったんだ。まるで、間違いだったかのように、恐縮して小さくなっていたよ」
「それもおかしいですよね。最初にそこまで感じたのなら、一応警察に話をしてもいいはずなのに」
「そうなんだよね。でも、それをしなかったということは、冷静になって考えた男が、自分が証言することで、何か不都合があるのではないかと思ったのかも知れないね。それを思うと、今でもその時のことがわしには忘れられなくなっているんだ」
と、年配の男性が話していた。
美奈は、その時に、
「この二人は、私に限りなく近い何かを備えているのかも知れないわ」
と感じた。
兄のことを思い出しながら、話を聞いていたが、その話がどんどん美奈の興味をそそる話になったことで、兄のことを思い出すスピードが速まった。そして、兄のことを思い出した瞬間、二人の話と結びつく気がしたのだった。
兄の話を思い出したことで、余計に二人の話が、美奈の中で結びついてくるのを気にしていた。
二人の話は、まだまだクライマックスがあるようだった。美奈が自分の世界から戻ってきて、二人の会話に耳を傾けると、そこは美奈が入って行けるだけのスペースが微妙で、とりあえず、話を聞いているしかなかった。
「さっきの兄とのイメージは、まるで夢の中にいるようだった」