辻褄合わせの世界
母親には、夫と呼べる人が二人存在した。最初に結婚した相手との間に兄が生まれ、そして次に結婚した相手との間に、美奈が生まれたのだ。兄妹がそのことを知ったのは最近のこと、だから、兄が美奈に迫って、男女の関係になったとしても、それは兄の中で気持ちが整理しきれなかったからなのかも知れない。
しかし、その話を聞いて、美奈は冷静だった。
「そうなんだ」
と、言葉にすれば、たった一言、これだけで終わることだった。
やはり、子供への愛情が薄いのは、一緒にいた男性に対しての愛情が薄かったからなのかも知れない。
「やっぱり、私はあの母親の娘なんだ」
と、今なら感じる。
好きな人ができても、いつも尻すぼみである。最初は熱を上げていても、次第に冷めてくる。逆に相手の男性の方は、最初はそうでもなくても、後から美奈を好きになってくるのだから、お互いにすれ違ってくる。
「なんで、そんなに冷静になれるんだよ」
と、相手の男から罵声を浴びせられても、仕方がないことだった。
「冷めちゃったんだもん」
としか言いようがないが、それを口にすることはない。それだけの勇気を持ちあわせていないというべきか、それとも、いざとなると、潔さがなくなるというべきであろうか。美奈が自分のことを分からない一つの部分であった。
その頃から母親を好きだとは思えなくなった。理由も分からず、毛嫌いされるなど、子供の理屈には完全に想定外である。
母親を慕うことができないと思うと、余計に三十代前後くらいの女性が、どうしても気になってくる。年齢としては、母親よりも少し若いくらいが一番いい。母としてだけではなく、姉としても慕うことができると思ったからだ。
その頃に慕っていた女性の後ろ姿を、美奈は思い描いていたのだろう。その人の後ろをついて歩いた記憶はあるが、なぜか、記憶の中の後ろ姿が、その人だと断言できない自分がいた。
その女性の後ろ姿が母親でないことはハッキリと分かったのだが、どこか母親の面影を感じさせるところがあった。
その後ろ姿に子供の頃慕っていた人を重ね合わせたのは、後ろ姿に母親の面影が残っていたからだった。
「憎んでいるはずの母親の面影を消そうとして、無理をして誰か他の人を思い出そうとでもしているのかも知れない」
その思いは、半分当たっている。
今、自分がしている香水。これは昔の懐かしい香りを覚えていて、好きになった香りだった。この香りが、実は母親の香りだったということを思い出したのが、本当に最近だった。
そう、記憶の欠落を感じ始めてからで、一年前のあの頃には覚えていなかったことだ。
美奈の記憶の欠落は、欠落だけを招いたものではない。少しだけではあるが、子供の頃に忘れてしまったような些細な記憶を、思い出させる効果があった。
記憶の欠落を招いた交通事故で入院していた時には、そこまで気付かなかったが、明らかに交通事故の前には意識していなかったことを、今では意識するようになっていた。
「病院のベッドで、毎日同じような生活をしていたのなら、思い出すものも思い出さないのかも知れないわ」
と思っていたが、微妙なところで、その考えも当たっていた、
ということは、今は欠落している記憶も、今までの生活に戻ってしまえば思い出すことになると考えられなくもない。
ただ、それを美奈は、よしとしないような気がする。それは、欠落した記憶が、自分の中で作為的に行われたことだとすれば、いくら元の生活に戻ったとしても、思い出すはずがないと思うからだ。
逆に思い出してしまえば、自分の意図と反対になってしまうことで、美奈は自分の目的が果たせない自分を、果たして許せるであろうか?
母親の後ろ姿を覚えていないのは、きっと、自分の面影がそこに存在していることを悟っているからなのかも知れない。普通なら自分の後ろ姿など、一番確認できない場所のはずなのに、それが分かっていて、どうして後ろ姿なのか? 美奈は、自分が本当に母親をどこまで憎んでいるのか分からなくなってきた。
学生時代の美奈は、比較的男性に人気があった。
ツンデレ風に見られるが、どこかあどけなさが残っている。
そんな女性だというイメージで見られていたことを、友達から聞かされた。
「あなたは本当に役得よね。普通逆なら分かるのに、ツンデレ風の雰囲気の中にあどけなさが見えるような女性なんて。そんなにいないわよ」
と、その友達は美奈を羨ましがっていた。
「そんなことないわよ。それより、私はツンデレ風なの?」
「そうね、どこか男性と距離を置くような雰囲気に見えるんだけど、それでもあどけなさが残っているんだから、最初はマイナス要素から始まって、最後にはプラスになるのだから、そのプロセスにおいての進化は、やっぱり女性の私たちから見ても、羨ましい限りだわ」
「そういえば、高校の時の女の先輩から、『あなたは、女性からも好かれるタイプだわね』って言われたの。その時に、女性からもって言われたことで、ひょっとして、男性からもモテるようになるのかしらって思ったの」
「高校時代までは少し雰囲気が違ったのかも知れないわね。きっと短大時代に変わる要素のようなものがあったんでしょうね」
「私には分からないの。短大時代は確かに他の大学の男性から、言い寄られたりしたけど、私のどこが好きなのかって聞いたら、皆、言葉を詰まらせていたわ。私のどこが好きなのかハッキリと答えられないような人とはお付き合いできないと思っていたので、ほとんど男性と付き合ったことはなかったわ」
「その答えを付き合う前から求めようとしているあなたは、すごいと思うわ。でも、その答えを求めたい気持ちは分かる。あなたにはきっと理想の人がいて、その人だったら、きっとそんなことは聞かないでしょうね」
「私の理想の人?」
美奈は、その時考え込んだ。自分の理想の男性が誰なのか、すぐには分からなかった。しかし、しばらくすると分かったが、それを口にすることはできなかった。
それが自分の兄だということを悟られたくないという思いと、
「本当にそうなんだろうか?」
と、考えている自分との間にジレンマのようなものがあったからだ。
美奈は自分が果たして本当に誰が好きなのか、永遠のテーマなのだろうと思うようになった。兄だということを自分で認めたくないと思っている以上、他の男性の中に理想の人を見つけることができるかどうか、疑問だったからである。
好きになる男性の基準は兄だった。兄の雰囲気を持っている男性を好きになるというのが、美奈の恋愛への第一歩だった。
しかし、兄に襲い掛かられて、しばらくの間トラウマが取れなかったことから、
「私は、誰かを好きになったり、好きになってもらえる権利なんてないんだわ」
と思うようになっていた。
そんな時、兄が家を出て行ったのだ。
急のことだったので、美奈も家族もビックリしたが、兄の消息を家族も探そうとしなかった。
「こんなにまでアッサリとされてしまったら、私は誰を恨めばいいの?」
と美奈は考えた。
兄を恨むのはお門違いである。ただ、理由が何にせよ、自分には何らかの形で示してほしかったと思っている。