辻褄合わせの世界
「それにしても、襲われていてパニックになっている中で、どれだけのことを考えたのだろう?」
と美奈は感じた。
「ごめんなさい」
美奈は、思わず呟いた。
それは拒否してしまった兄への思いなのか、いろいろな憤りを感じている自分に対しての思いなのか、
その時の美奈は、言葉にできるとすれば、一言、
「ごめんなさい」
と呟くしかなかった。封印してしまった記憶を、意識が伴っているとすれば、その時にもきっと、今の言葉を呟いたに違いない。
最初こそ、力のこもった兄の腕で蹂躙され、動くことすらできなかったが、すぐに兄の手から力がなくなっていった。
最初は兄の手の力が強すぎたことで動くことができないと思っていたが、実際にはそうではなかった。兄の鋭い眼光が、美奈の心に突き刺さり、動くことを美奈自信が否定していた。
しかし、美奈が我に返り、兄の顔を凝視できるようになると、今度は、美奈の腕を掴んでいる力が次第に震えに変わっていくのを感じて、兄の表情が情けないものに変わっていた。
「どうして、そんな顔をするの? お兄様」
美奈は、初めて兄のことを、
「お兄様」
と呼んだ。
今まで自分を蹂躙していたはずの相手なのに、相手が震えてるのを感じると、明らかにそれまでの感情が変わってきたのを感じ、呼び方に微妙な変化を与えた。
しかし、表現は微妙でも心境は大いなる変化である。美奈は、兄に対してどうしてほしいと思っているのか、そして、自分がどうしたいのか、この状況で、必死に模索していたのだ。
兄に対しての気持ちと、その時の自分への気持ちと、そのどちらが強かったのか、美奈には思い出せない。しかし、その時美奈の前には兄だけがいて、兄の存在が、自分の中で、自分よりも大きくなっていたのではないかと思えるほど、自分を思い出すことができなくなっていたのは確かだった。
力が弱まった兄の手を払いのけることは、美奈にはできなかった。
力のない手で、兄に抱きしめられながら、明らかに情けなさを前面に出している兄に対し、憐みを感じている自分に気が付いた。
「すまない、美奈」
顔を美奈の胸に埋めながら、兄は詫びた。
兄は顔を上げることができない。身体はまだ震えている。震える兄の身体を軽く抱きしめながら、美奈は、天井を眺めていた。
兄のことを思い出したからと言って、欠落した記憶が戻ってくるような気はしなかった。
一年前の兄のことを思い出すと、美奈にとって、一年前のことがそれほど遠い過去ではないのではないかと思うようになった。
思い出してしまった過去から、今を見ようとすると、今度はここ一年間の記憶の方が、遠い過去のように思えてならなかった。
兄のことがあって、少し気が滅入りかけていたちょうどその頃、美奈は自分が誰かに見られているような気がして仕方がない時期があった。
「気のせいだわ」
と自分に言い聞かせてみたが、そう簡単に気を紛らわすことはできない。それが、あの時の兄の視線に似ていたからだ。
「震えながら謝っている情けない視線」
見上げるその眼は、何か物欲しげで、とても尊敬に値するものではなかった。そんな目ほど気持ち悪いものはない。相手が誰だか分からないところも気持ち悪く、今まで兄にしか感じたことのなかった気持ち悪い視線を、他の人から浴びるということを、絶対に許すことのできないものだと、美奈は感じていた。
その人の存在は、夕方が多かった。
仕事が終わって会社を出てから、普段はそのまま直行で家に帰る。その視線は、会社を出る頃から始まっていた。
夕日を見ながら歩いていると、その男の存在を忘れるくらい綺麗な夕日を感じていた。会社の帰りに通りかかる小高い丘が、展望台のようになっているが、美奈はそこから夕日を見るのが、学生時代から好きだった。
夕日を見ていると、その日何かをしたわけではなくとも、気だるさを感じる。それほど暑くない日であっても、汗が滲み出て、汗が身体に纏わりつくのを感じると、それが気だるさに結びついていた。
「この場所でなければ、ただ、気持ち悪いだけなのに」
美奈は、この場所であれば、気だるさも心地よさに変わると思っている。
綺麗な夕日が、そう感じさせるのか、それとも、時々吹いてくる風に心地よさを感じるのか、いろいろ考えてみたが、やはりこの場所の雰囲気全体が醸し出しているものに、心地よいバランスを感じるからなのかも知れない。
小高い丘を夕日の時間帯に通りかかるのは、卒業してからの方が多くなった。仕事を定時に終えて、残業もなく帰ってくると、春以降であれば、ちょうど夕日の時間に差し掛かることができる。夏の日が長くなった時でも、どこかで時間を潰して、わざとこの時間に合わせて帰ってくるようなことをしたこともあったくらいだ。
ちょうどその頃は、時間調整などしなくても、夕日の時間にちょうどよかった。その日もいつもと同じように展望台に差し掛かったのだが、その日は、何かを考えながら帰ってきたようで、夕日を見るまで、自分が何を考えていたのか、そして、まわりの景色をまったく意識していなかったことを、感じていた。
「いったい何を考えていたのかしら?」
美奈の記憶の欠落には、規則性はなかった。ところどころ抜けているのだが、一つが大きく抜けているというわけではない。逆に細かいところでは覚えているのだが、大きく捉えた時の記憶が曖昧だったのだ。
石でできたイスが、二つほどあるその場所は、道から少し入りこんだところにある。少し突き出したような地形になっていて、道が一直線に伸びるようになっているので、その突き出した部分を展望台のようにしているのだった。道の反対側は断崖になっているが、展望台の方から下は、少し緩やかになっている。それでも石の敷居が作られているのは、底から人が落ち込まないようにするためだ。もし、そこから落ちれば、民家の裏庭に一直線、敷居が立っていて当然だ。
美奈は、時々イスに座り、夕日を見ることがあった。その時は最初からこの場所を意識していることが多かったが、その日は、この場所に差し掛かった時、急に思いついて、イスに座った。
学生時代の頃に感じた気だるさを思い出したからなのかも知れない。
気だるさの中に、汗が滲んでいるのは、学生時代と同じだった。ただ、学生時代と違って、今は化粧を施している。
短大時代も化粧をしていたが、OLになってからでは、また違っていた。その日は、滲み出る汗に混じって自分の身体から滲み出ている香しい匂いに、急に懐かしさを感じた。
懐かしさは、子供の頃に遡る。
誰か大人の女性の後ろを黙って歩いていた記憶を思い出した。その後ろ姿は、明らかに母親ではなかった。母親の後ろ姿などまったく覚えていない美奈だったが、少なくとも母親の後ろをついて歩いた記憶はない。憎みこそすれ、慕って後ろからついていくなど、ありえないことだった。
母は、美奈たち兄妹が、後ろからついてくることを嫌った。理由は分からないが、子供が嫌いだったようだ。
「それなら、どうして生んだのだろう? しかも二人も」
その理由は、後から分かった。