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辻褄合わせの世界

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 さっきまで恐怖に震え、血の気が引いていた美奈からは考えられないような余裕が、美奈の中にはあった。
「相手を憐れむには、自分に余裕がないとできないんだわ。余裕がない時に憐れむと、相手を余計に惨めにするだけなんだわ」
 という気持ちになっていたのだ。
 確かに憐れむ時の優位性は憐れむ方にないといけない。
 心に余裕のない人間が、相手に対して優位性があるわけもなく、立場の認識を間違えると、相手に対して失礼に当たるだけではすまなくなるだろう。
 兄を慰めるには何をすればいいのか、そればかりを考えていると、その時、兄の心境に大きな変化が起こり始めていることに気が付いた。
 それまで見たこともないような表情で悲しんでいることで、豹変していることも分からなくなっていた。
 兄の表情は、すでに兄としてではなく、オトコの顔になっていた。
 なぜ、そのことにすぐに気付かなかったのかと言われるかも知れないが、実は気付いていた。兄に対して何もできない自分に対しての憤りと、さらに皆が哀れもうとしていることで、余計惨めにさせられた兄の屈辱感がそんな表情にさせたのだと思っていた。
 兄がオトコになって美奈に抱きついてくるまで、どれくらい時間があっただろうか?
 美奈にはあっという間の出来事だったような気がするが、当の本人である兄には、かなり時間を要したと感じたのではないだろうか? その間にどれほどの紆余曲折が瞬間瞬間にあったのか、美奈には理解できる範囲ではなかった。
「お兄さん、やめて」
 美奈は、抵抗してはいけないと思いながら、女の性で、抵抗してしまった。
 だが、それこそ、兄の「思うツボ」だった。
 兄の顔は狂気に満ちていた。狂気の感覚が、平常心を凌駕したのだ。
――こんなことって本当にあるんだ――
 精神を凌駕する狂気など、なかなかお目に掛かれるものではない。美奈は急に冷静になって、兄の顔をしっかりと見つめた。
「何だよ、その顔は。俺に何の文句があるんだ。憐れんだ目をしやがって、お前は何様のつもりなんだよ」
 兄の罵声は酷かった。相手を完全に妹として見ていない。完全にメスとしてしか見ていないようだ。
――これが兄の本性だったのかしら?
 サディスティックな男性の存在を知らないわけではないし、その手の映画を見たこともあった。
 しかし、身内に、しかも一番身近だと思っていた兄が、サディストだったなど、今さらながらに信じられない心境だった。
 ただ、子供の頃の兄は、よく女の子を苛めていた。親やまわりは気になっていたようだが、妹である美奈には、そこまで気になることではなかった。
「これも兄の性格。悪いことだとは思わないわ」
 と、兄のすることは、どうしても贔屓目に見てしまう。それが今も残っていて、
「兄が襲ってきても、抵抗しないようにしよう」
 と思っていた。
 しかし、実際に襲って来られると、抵抗してしまう。これが本能というものなのか。本当に危険を感じたのである。
「さっきのは、本当に兄だったのかしら?」
 と、兄が美奈に罵声を浴びせて、今度は頭を抱えて丸くなって震えている兄を見ながら感じていた。
 こんなにも短い時間に、何度も豹変してしまう兄を見ていると、涙が出てきた。
 この涙は憐みの涙ではない。襲われたという恐怖の涙でもない。しいて言えば、
「打ちひしがれている兄を見て、何もしてあげられない自分に対しての涙」
 なのではないだろうか?
 涙は、喜怒哀楽、その精神状態でも流れてくるものだ。
 ということは、いつ何時、涙が流れてくるか想像もつかないということである。涙ほど流動的な精神状態を正確に表しているものはないのではないだろうか?
 そう思うと、美奈は、震えながら涙を流している兄の涙に対して、まったく違和感を感じない。
 兄に襲われたという感情は、これがもし、他の知っている男性から襲われるよりも、まだマシなものだと思っていた。
 今まで他の男性に言い寄られたこともないのに、襲われるなどありえないことだったが、オンナとしての部分を持ち始めた美奈は、誰にも言えるはずもないが、密かに「強姦願望」を持っていた。
「サディストに、蹂躙されたい」
 それは、すなわち自分がマゾであることを示しているということだ。
 それなのに、兄に襲われたというだけで、ビックリしてしまい、今まで自分が考えていたことをすべて否定しなければならなくなったことで、美奈は大きなショックを受けてしまった。
 その思いがいきなりトラウマに繋がったわけではないが、兄への感情が自分の中で間違っていたということが、自分を殻に閉じ込めることになったのは間違いない。
「兄が悪いんじゃないんだ」
 すべては自分が悪いのだと、兄を庇う気持ちが内に籠ってしまう性格を作り出した。美奈にとって、これまで兄は絶対の存在であり、自分の中で逆らうことのできない存在だった。
 兄の中に、他の男、つまり、美奈の中にある「強姦願望」のオトコと被ってしまったことがショックだった。
「兄は私にとって神聖な存在で、他のどんな男たちとも違うんだ」
 兄は、他の男たちと同じことはしない。もし、したように見えても、どこかが絶対に違っている。兄は本当に神聖な存在であると思っている。そんな兄が、自分の妄想の男性たちと同じことをするわけはない。
「少しでも違っていれば、兄を受け入れたかも知れない」
 と思ったが、あの場で、違いなど探せるわけもない。それだけ、ショックによるパニックは酷かったのだ。
 他の女性にフラれて、その憂さを妹で晴らそうとした……。
 本当なら、そんな兄を許せるはずなどないのだが、必死で許そうとしていた。それだけ美奈の中で兄の存在は大きなもので、
「あの時の兄はどうかしていたんだ。私が信じてあげないと誰も信じる人がいなくなってしまう」
 と思った。
 この思いは、逆に、
「兄を今なら独り占めできる」
 という考えにも結びついている。
「兄を一人占めすることができたら、私は、兄だけを見て生きていけるんだわ」
 と思うようになり、兄をフッた女性に感謝すらできるくらいだった。
 だが、兄の気持ちを一番分かってあげていると思った美奈が、本当は分かっていなかったことで、兄は頭の中がパニックになったのだろう。
「ひょっとすると、兄も私のことを好きなのかも知れない」
 兄妹で、男女関係や、恋愛感情など、タブーだということは分かっている。しかし、相思相愛なら、誰に止めることができるだろう。
「恋愛は自由だというのに、どうして、兄妹だとダメなの?」
 と理不尽な思いを繰り返す。
 しょせんは、誰かが決めたこと、ただの迷信のようなものなんじゃないかと、美奈は必死に考えた。しかし、太古の昔から言われていることだ。そう簡単に否定することなどできるはずもない。
 兄に襲われた美奈がパニックになったのは、兄妹での恋愛や男女関係はタブーだということを意識した証拠ではないか。美奈がショックを受けた理由の大きな部分に、そのことを信じていた自分への憤りがあったことは否めない。
 要するに、いろいろな思いが重なり合って、兄と自分の関係を否定しなければいけない自分に一番憤りを感じているのかも知れない。
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次