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辻褄合わせの世界

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 だが、時間がなかなか経ってくれないことの影響は、散歩している時にモロに出てきた。最初はさほど違いを感じなかったが、歩いているうちに、次第に疲れを感じるようになって、足の重たさが、身に沁みてきたのだ。
 いつもは一時間弱くらいの散歩なら、途中で休憩を入れずに歩きとおす。何も考えずに歩いているのだから、そっちの方がよかった。しかし、その日は違った。足が重たくてまるで棒のようになっていたこともあって、休憩を入れなければ額から流れる汗が、さらに気持ち悪く感じるようになるだろう。そう思うと、今まではほとんど意識したこともなかったが、途中にある公園のベンチで一休みすることにした。
 足元から影が伸びていた。だが、風もないのに、影が揺らめいて見えたのだが、気のせいであろうか。今まで足元の影を見て、最初から歪で細長いのは分かっていたが、風もないのに影が揺らめいて見えるのは、初めての経験だった。
「やっぱり、今日は疲れているのね」
 と、自分を納得させてみたが、身体の重さは、少しずつ解消されていくのを感じていた。
 身体の重さは、疲れに単純に比例しているわけではない。疲れからは、まず手足の指先の痺れを感じ、頭痛や身体から熱っぽさが感じられ、そこで初めて、身体の重さを感じる。一足飛びに身体の重たさを感じるものではないので、その日の身体の重さも、疲れだけから来ているわけではなさそうだった。
 だが、指先の痺れからは早々に解放され、頭痛もさほど感じたわけでもない。したがって、熱っぽさもなく、ただ、身体が重たいだけだった。
 生理には、まだだった。ただ、生理から生理の間を一クールと見るならば、一クールの間に一度は、身体の重たさを感じることはあった。もちろん、生理の期間を一度と数えると、まったくない時もあるのだが、生理以外で一度くらいは体調の異変を感じ、身体の重たさは常に最後にやってきた。
 公園で休んでいると、西日はすでに沈みかけていて、その日は普段にも増して、赤い色の空を見ることができた。
 夕焼けというのは、まだまだ赤みが足らないが、それでも黄色には程遠い色だった。「沈む夕日を見るなんて、久しぶりだわ」
 前は帰宅途中で、毎日のように夕日を感じていたものだが、ここ最近は、夕日を見ても何も感じなくなっていた。
「それって記憶が欠落したのを実感し始めてからだったかしら?」
 記憶が欠落しているということは、医者から聞かされて分かっていたし、実際に思い出せないこともたくさんあった。しかし、実生活での意識としては薄く、特に入院中では実感が湧かなかった。
 夕日を意識していると、
「本当にあっという間に夜になっちゃうんだ」
 と、思わず呟いてしまうほど、空は黒く染まっていった。
 真っ黒な空の向こうには、星が少しずつ見えてきた。
「いえ、きっと元からあったのが、夜になったことで見えるようになっただけなんだわ」
 と、急に現実的な発想になる。その時に美奈が考えていたのは、
「光や色の加減で見えるはずのものが見えないということもあるんだわ」
 ということだった。
 それは、空に浮かぶ星に限ったことではない。実際に生活していても同じような現象が起こり得ているのかも知れない。それは心理的な面で、人の心であったり、感情であったり、普段から「見える」という概念とは違ったものであっても、光の加減が力を及ぼしているのかも知れないと感じていた。
 美奈は、身体の重たさから解放されると、その反動で、今度は身体を持て余してしまうほどの余力が戻ってくることがある。その日も身体を持て余し、身体が軽くなった気がしていた。
「このまま帰るのって、もったいないわね」
 と感じ、以前から気になっていたバーに寄ってみることにした。
 お腹も適度に空いていて、カクテルを呑みたい気分になっていたのだ。
 交通事故に遭ってから、アルコールは口にしていない。別にドクターストップがかかっているわけでもないし、事故のせいで、アルコールを受け付けなくなったというわけでもない。ただ単純に呑みたいと思わなかっただけだ。
 以前から気になっていたバーは、公園から程遠くないところにある。
 公園で休憩しようと思ったのは、最初からバーのことを意識していたからではないかとも思えてきた。
 公園を一歩踏み出して、足元を見ると、空が真っ黒な膜に覆われてしあったことで、光の恩恵を受けられなくなった。その分の光の恩恵は、路側に一定区間に立てられている街灯だけなのだが、数か所から当たる街灯のせいで。足元から伸びる影は、足を中心にして、数本伸びていた。
 それはまるで忍者の分身の術のようであり、歩くたびに、足元を中心にグルグル回って見えるのは、実におかしな光景だった。
 足元ばかり見て歩くと危ないので、舌を向いたり、前を向いたりと、首が疲れてくるほどの忙しさだ。そのせいもあってか、だいぶ歩いたつもりになっているのに、ほとんど進んでいないように見えるのもおかしなことだった。
 店が近づいてくると、ひと際明かりが煌々として見えてきた。それでも、中にお客はほとんどいないのではないかと勝手な想像を巡らせていると、まだ入ったこともない店の雰囲気を感じ取れるような気がしていた。
 今までバーと呼ばれるところに一人で入ったことのなかった美奈にとっては、勇気のいることだった。だが、それも記憶が欠落しているおかげなのか、この程度の勇気など、何でもないことのように思えた。
 記憶の欠落は、今までの意識を一変させた。
「何て、白々しかったんだろう?」
 と、感じることもあったり、
「悩みなんて言えるほどのことではないわ」
 というようなことを、真剣に考えていて、堂々巡りを繰り返していたりした。
 今から思えばそんなことは、
「敢えて答えを求めようとはしない行動を、自分の中で正当化させようとする意識が働いた」
 というだけのことにすぎなかった。
 ただ、正当化させようとしたことが、帳尻合わせだけにとどまっているのかどうかで、かなり解釈が違ってくるものになるのは分かっている。
 帰宅とは反対方向で、しかも、途中から脇道に逸れる。夜が更けた時間に、家と反対方向に向かって歩くなど今までになかったことなので、新鮮な気がしてきた。
 街灯は公園の近くまでに比べて、少し少なくなってきた。しかも、切れているものもあり、薄暗かった。それでも、何とか五分も歩けば、目的地に辿りつける。明々と煌々しく見えたのは、それまでが暗かった影響もあるのかも知れない、
 店に近づいていくと、さっきまでと打って変わって、あっという間に店の前まで辿り着いていた。
 そこからは早かった。
 店の扉の取っ手を握ったかと思うと、一気に扉を開けて、中を見渡した。こじんまりとした店内からは、テーブル席が目につき、その向こうのカウンター越しにマスターが洗い物をしている。
 カウンター席の手前の方に二人の男性客が座っていたが、扉の反応に気が付いて、こちらを見ていた。二人とも意外そうな表情をしている。
「一見さんが来るなんて、久しぶりだよな」
 と、手前側の年配の男性が隣に座っている美奈とほぼ同年代と思しき、大人しそうな青年に語り掛けている。
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次