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辻褄合わせの世界

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 それまで疲れから食欲もままならなかったはずなのに、日が暮れてしまうと、それまでの気だるさがなくなってくる。そして襲ってくるのが、食欲の復活だった。
 食欲が復活すると、おいしいものが食べたくてたまらなくなる。特に匂いが食欲をそそるもの。焼き鳥だったり、焼き肉だったり、ウナギだったりと、夜の街には、それまで気付かなかった食欲をそそる店がウヨウヨしている。
 いつものように、夕凪を感じようと、表に出た。夕日はマンションの谷間に消えていて、足元から伸びる影を確認することができなかった。
 今までは、夕凪の時間、最初から表にいるので、夕凪を感じている時、反射的に足元を見ている自分に気付く。足元から伸びる影は、これでもかというほど長く伸びているが、決して果てしなさを感じさせるものではない。長さを想像以上に感じるのに、果てしなさを感じることがないという、一見矛盾したような発想にも、合理性があるのだと感じさせるのが、夕凪という時間の魔力なのかも知れない。
 夕凪の時間というのは、
「一日の中で、一番魔物と出会う時間なんだ」
 ということで、この時間が「逢魔が時」と呼ばれていることを知ったのは、高校生の頃のことだっただろうか。
 高校生の頃の美奈は、何でも信じていた。そして従順なところがあり、人に逆らうことを知らなかった。
 人が右と言ったら、迷うことなく右を見ていた。それなのに、自分では、
「人と同じでは嫌な性格なのだ」
 と思っている。
 美奈の中で一番矛盾した人生を送っていたのが高校生の頃だったのかも知れない。
「人に逆らったらいけないんだ」
 という意識が一番強かった。下手に逆らって、その後の報復が怖かったのかも知れない。目の前で苛めに遭っている友達をまともに見てきた美奈だった。どんなに自分だけが虚勢を張っても、どうにもならないことくらい分かっていた。
 子供の世界から、大人の世界に脱皮しようとしていたのが高校時代。
 そう、ちょうど前と後ろでまったく環境が違うのは、昼と夜との違いに似ているからではないか、
「影がどんなに長くても、果てしなさを感じることなどありえない」
 そして、
「昼と夜のまったく正反対の世界には入り口があり、それが夕凪の時間なのではないか」
 という二つの発想が子供と大人の世界の差へと誘った。
 昼と夜の違いは壮大なもので、ちょっと簡単にイメージできるものではない。しかし、一人の人間にとっての、子供と大人の違いというのも、その人にとって、壮大なものであるに違いない。
「私にとっての高校時代は、夕凪のようなものだったんだわ。一歩間違えると、大きな穴に嵌りこんでしまって、抜け出すことができない。そんな思いをずっと抱いてきたのかも知れないわ」
 と、美奈は考えていた。
 高校時代を思い出しながら、いろいろなことを考えていると、気が付けばやっと夕凪の時間になっていた。その日の夕凪はいつもに比べ、時間が長かったように思う。いつもなら十分か十五分くらいのものだと感じ、気付けばいつの間にか、通りすぎている、
 しかし、その日は、なかなか夕凪の時間はしつこかった。
「三十分くらいはあったかも知れないわね」
 と感じたのだ。
 しかも、夕凪が終わる瞬間を感じ取れた気がした。夕凪が終わる時間を感じ取れたことで、夜がやってくるまでにこれも少し時間があった。
「気持ち悪い時間があまり長いというのも嫌だわ」
 早く通りすぎてほしいという意識は今まで夕凪に感じたことはなかった。
「魔物に出会う時間帯」
 と言っても、美奈には他人事だった。
 しかも、夕凪の時間は毎日必ずやってくる。飴の日もあれば、風が元々強い日もあって、夕凪を感じさせない日もあるだろう。しかし、それも影に隠れているだけで、確実に存在する。意識しているのに気付かないというのは、やはり他人事のように思うからなのかも知れないが。それ以外にも理由としていくつか思い浮かぶが、
「帯に短したすきに長し」
 というように、すべて中途半端に感じられてしまう。
「夕凪の時間を意識するのは、中途半端ではない時間を、自分自身で感じたいからなんだわ」
 と美奈は感じるようになっていた。
 夕凪が中途半端であってはいけないという考えは、そのまま子供の世界と大人の世界の違いに直結しているのかも知れない。
 美奈にとって、夕凪の時間が正真正銘の中途半端ではない正味の時間であることを、今再認識しているようだ。
 夕凪の時間が過ぎると、他の人であれば、夜のとばりが下りてくるのを当たり前のように感じられるが、美奈にとってが、時々、そのことに対して、疑問を呈することがあるのを、今思い出した。
 夕凪が毎日一定の時間になるのは分かっている。始まりと終わりの時間にずれはあるが、夕凪の時間というのは一定だ。
 そのことを意識していると、本当にそうなのかが疑問になってきた。
「夕凪が終わらないなんてことはないと思うけど、でも、終わってすぐに夜のとばりが下りるということは、本当に毎日の日課なのかしら?」
 と、考えてしまった。
 そう思うと、毎日当然のように、夜が明けて、昼になって夜が来るという決まっていることも、どこまで本当なのか、考えたこともなかったことに気付かされる。
 天体の法則で証明はされているのだから、当然のことなのに、何を疑問に感じるのか、不思議だった。
「やっぱり夕凪という時間が、何か思考回路に大きな影響を与えているのかも知れないわね」
 と思っている。
 美奈は、夕凪を特別な時間だと思っていたことに、今度は不思議な気がしていた。その時間は、他の朝だったり、昼だったり、夜だったりする時間と、何ら変わりのない。その時間が、美奈にとって、特別な時間でないことは、明白だった。
 時間の一つ一つに疑問を持っていたらキリがない。それは夕凪といえど同じこと、特別な時間だと思えなくもないが、思ってしまい意識してしまうと、毎日同じ時間だと感じていることが崩れてくるような気がするのだった。
 美奈の中で、今まで感じていたことが、少しずつ音を立てて崩れていくのを感じた。
「ひょっとして記憶の欠落とは、今まで感じていたことが少しずつだけど、音を立てて崩れていくのを感じたことから始まっているのかも知れないわ」
 と思うようになっていた。
 家を出てから、どこに行くという当てもなく、ただ歩いているだけでよかった。別に目的地があるわけではない。毎日、同じくらいの時間に家を出て、同じコースをゆっくり何も考えずに歩いている。気が付けば家についていて、時計を見ると、毎日ほぼ同じ時間の帰宅だった。
 所要時間としては、一時間弱程度、家に辿り着く誤差は、一分未満。何も考えずに歩いているからできることなのか、何かを考えていても、歩くスピードは本能なので、さほど変わりがないものなのか、美奈は後者だと思っていた。別に時間に差があろうがなかろうが、大したことではないはずなのに、なぜか気になるのだった。
 その日も同じ時間の同じコース、ただ、いつもに比べて時間がなかなか過ぎてくれないことが気がかりなだけだった。
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次