墓前に佇む・・・
「家を残すために、私に婿養子を取らせるかと思ったのに、簡単に都会に出ることを許してくれるなんて」
と、少し拍子抜けした感じで、就職したのはよかったのだが、結局は数年で、会社を辞めることになり、家に帰ってきた。
「こうなることが分かっていたみたいで、悔しいわ」
と思い、戻って来てからは、しばらく大人しくしていた。
すでに二十歳になっていた敦美は、その頃になると、都会に出たのは、都会への憧れではなく、この街にいたくなかったという思いが自分の中にあったことが、出戻ってくることになる一番の原因だったのだと思うようになっていた。もちろん、都会への憧れだけで出て行ったとしても、結果は同じだったかも知れないが、精神的には少し違っていたのかも知れないと思った。
――ひょっとすれば、もっとひどい精神状態になっていたかも知れない――
とも思ったが、少なくともあれだけ嫌だった田舎が、何事もなかったように迎えてくれたことは敦美にとって幸いだった。
ちょうど、都会から帰ってきて一年が経った頃、敦美を一人の女性が訪ねてきた。年齢的には三十代前後くらいだろうか。見覚えのないその人は、
「私は、あなたのお姉さんを知っているのよ」
と言っていた。敦美にとってお姉さんというと、樹里しかいない。樹里のことは、重要な話を子供の頃に母親から聞かされたが、それ以外の人から聞かされたことはない。
もっとも、母親の話では、真実を知っているのは、家族と誘拐事件をでっち上げた人たちという一部の人間だけだったはず。だから、もし他の誰かから姉の話をするとすれば、それはほぼ根拠のない話になるに違いないと思っていた。
もう、姉のことは、三十年近くも前の話で、覚えている人、知っている人すら、もうほとんど残っていないのではないかと思えるほど、時間が経っている。
ここが、閉鎖的な街であるというゆえんは、年齢的に五十歳以上になった人は、若い人に口を挟まないというのが、伝統になっていた。だから、話をしに来るなら、当時まだ未成年だった頃の人しかいない。その頃にまだ未成年だった人がどこまで知っているかというのも、疑問である。まず、話をするにしても、経ちすぎた時間は如何ともしがたく、よほど記憶の中から消せないことがあった人しかいないだろう。そう思うと、確率的には、ありえないと言ってもいいほどだったに違いない。
その女性は、どこか垢抜けたところがあった。だが、都会の空気を最近まで味わっていた敦美には、彼女が都会の女性ではないという思いが強く、裕福な家庭に育った品格のようなものを感じているのかも知れないと思った。その感覚は半分は合っている。彼女は確かに裕福な家庭に育ったが、それも途中までで、しかも、彼女は途中で家を出てきていたのだから、それでも垢抜けた雰囲気を感じるということは、彼女の中に身について消えない雰囲気があり、敦美にとっての「垢抜けた雰囲気」というのが、彼女の身なりや態度に現れていたに違いない。
「私は櫻井麻衣と言います。あなたのお姉さん、つまり樹里さんとは、子供の頃、仲良くしていた者です。松倉敦美さんですよね?」
「ええ、そうです」
「会えてよかった。本当はもっと早くお会いしたいと思っていたんですけど、あなたに会って、樹里さんのお話をするということは、この街ではタブーのようになっていて、しかも敦美さんがどこまで知っているかによって、話が変わってくると思ったからです」
「でも、どうして今なんですか?」
「あなたは、お母さんから、当時の真実を教えてもらっていますよね。たぶん中学生の頃だったでしょうか?」
「ええ、母親を問い詰めるような形になってしまったんです。お母さんには悪いと思いましたけど、仕方がなかったんです」
「敦美さんのお気持ちはよく分かります。で、その時お母さんから、あなたに事情を話したことを聞かされて、それ以上のことをあなたに話すのは時期尚早なので、あなたが二十歳を過ぎてから話をしてくれと頼まれました。ひょっとすると、あなたが二十歳になる頃に、私があなたに会いたいという感覚が薄れるかも知れないということと、そして、あなたが、もう今さらと思うのではないかということを計算してのことだったのかも知れないとも思うんですよ」
「そうでしょうね。私も実際は、何を今さらという感覚になっているのも事実ではありますね」
「それでも、麻衣さんがどうしても私に話したいということがあるということなんですか?」
「樹里さんや、あなたに対してというよりも、私の中でけじめをつけたいという気持ちがあるのかも知れないですね。それと、今になって、これだけは話しておきたいという気持ちが残っていたことに気が付いたというのも事実ですね」
「後になって思うことというのは、本当にあるのかも知れませんね」
「ええ、私もビックリしているんですが、私は今実は樹里さんが子供の頃に好きだった男性のところに身を寄せています。その人のことは、松倉家の人は知っていたとしても、ほとんど意識はしていないと思います。ただ、樹里ちゃんがサナトリウムにいた頃、私と会っている時、いつも口にしていたのは、その人のことでした。名前は大久保茂さんと言います。彼も、本当は樹里ちゃんのことが好きだったようで、特に行方不明になった時、一番最後に遭ったのが彼だったということで、彼の中には、大きなトラウマが残ってしまいました。私は、その気持ちが分かったんです。その時以来、私は茂さんと自分のために一緒に生きていこうと決めたんですよ」
麻衣の話を聞いた時、
――この人のようには、私はとてもなれないわ――
と敦美は感じた。
まず、そう思えるほどの相手にいまだ出会っていないということ。そして、そう思ったとして、本当に自分に、麻衣のような行動が取れるかというと、まったく自信がなかったからだ。
「でも、私にはまわりにそういう環境があったというだけで、選択肢がたくさんあったわけではないのよ」
と麻衣から言われた。
しかし、どうしても自分と相手を比較していると、後ろ向きな考え方にしかなれない麻衣には、
「私が麻衣さんの立場になった時、どんな行動を取るかということを、想像するのも難しいです」
「それは当然のことよ。私も今から思えば、考えての行動だと思っていたことも、衝動からの行動だったと訂正しなければいけないことがたくさんあったように思えてならないの。だから、敦美さんが自分を卑下する必要はまったくないのよ」
と言ってくれて、少し落ち着いてきた。麻衣に言われると、どこか安心してしまう自分がいることに敦美は気付いていた。しかし、それが他の人皆に通用するわけではなく、限られた人間に対してではないかと思うことで、
――私の性格は、麻衣さんに似ているような気がするわ――
と感じていた。
その時いろいろな話をしたのだが、一番印象に残っているのは、じゃんけんの話になった時のことだった。
「樹里ちゃんは、じゃんけんが嫌いだって言っていたわ。勝ち負けが一気に決まってしまうことがじゃんけんが嫌いな理由だっていうことだったの」
「えっ、お母さんから聞いた時は、じゃんけんが好きだったと聞かされたわよ」