墓前に佇む・・・
父親に決して逆らうことのなかった母親に、いつも何か物足りなさを感じていた。父親に逆らうことがないだけではなく、茂に対しても、怒ったことはほとんどない。父親から怒られた経験もあまりない茂は、ある意味過保護に育っていた。それは茂自身も意識していたことで、
「もし、俺が何か悪いことをしたら、それは親による過保護のせいだからな」
と、口に出したことはないが、自分に言い聞かせていた。それは悪いことをしての言い訳ではなく、自分に対する戒めのつもりで頭に描いていた。
――これが俺の中での精神のバランスの一つなのかも知れないな――
と思っていた。
ただ、歪なことは分かっている。戒めと言い訳という正対しているものを同じ言葉で意識しようというのだ。だが、
――長所と短所は紙一重――
というではないか。戒めと言い訳が紙一重であっても、そこに何の不都合があるというのか。茂は、そこまで考えてくると、自分の思考が、ある程度「バランス」というもので形成されていることに気が付いた。そしてこのバランスを重視する考え方は、幼少の頃から、いや、もっと前かも知れないが、運命づけられていたものなのかも知れないと思うようになっていた。
両親への想いに物足りなさを感じていた茂は、その感情を幼少の頃は樹里に感じ、そして、大人になってからは麻衣に感じていた。
だが、愛情と親への感情とが、同一の人物に対して感じることができるのだろうか?
本来であれば、
――感じてはいけない感情――
として、意識しなければいけない。そのことを茂は重々に分かっているつもりだった。だが、分かっていても、その通りに意識できるかと言えば、別問題。
「できなければ、苦しむだけ」
として、茂は考えていたが、もちろんできることなら苦しみたくないのは当たり前のことである。
「少なくとも今の自分と、麻衣とはお互いに相思相愛。それだけでいいじゃないか」
何があろうともこの事実に変わりはないと思っていた。今後色褪せることがあっても、この時に輝いたことだけは、決して消えることはない。茂にとってその時の気持ちを支える一番の「柱」だったのだ……。
第四章
その年の冬は、普段の年と平均気温はあまり変わりがなかったと言われているが、そのわりに積雪の多い年だった。田舎町の積雪は相変わらずだが、都会は普段からあまり降ることのない雪に、都心として機能をマヒさせるだけに十分なだけのパニックを引き起こした時が多かった。
そろそろ梅の季節も終わり、桜が気になる時期になってきたが、梅は普通に咲いたのに、さくらはなかなか開こうとしない。
海が見える小高い丘、そこに一人の女性が参っていた。彼女の後ろ姿は哀愁に溢れている。
「どうして私だけが残っちゃったの?」
そう言いながら、墓前に手を合わせている。墓は本当に新しく、ここ数年くらいのものだった。
「ここまで一緒にいたのにね。私だけが残っちゃうなんて、想像もしなかったわ。でも、あなたがそれで納得しているのなら、私は何も言わないけど、本当に納得しているの?」
そう言いながら、彼女は隣の墓石にも一瞥した。
「あなたが望んでいると思ったからここに墓を持ってきたんだけど、でもね、本当はそこでいいのかしら? 隣には誰も眠っていないのよ」
彼女は、二つの墓を見比べながら、今までのことを回想し始めた。
「本当はこの回想は、私じゃなくって、あなたがすることなのにね」
と言いながら、彼女は思わず吹き出していた。
「さっきから私、あなたに対して『本当に』という言葉を連発しているわね。思わず吹き出しちゃったわ。でも、本当にって言いたいのよ。ひょっとすると、あなたの求めている真実が、私には一つだったのかどうか、それが不思議なの。だから、『本当に』という言葉であなたに問いかけているの。ごめんなさいね」
と、言って謝った。しかしすぐに、
「これもあなたが最後になって私を一人にしてしまったバツよ。と言って、あなた一人にその責任を負わせるのは気の毒よね。その代償は、私が今払っているから、安心して眠るといいわ」
墓石に水を掛けてあげている。
その女性の髪は半分白くなっていて、ストレートな髪に見えるが、近くまで来ると、毛先が縮れている。前からではないように思えるのは、最近になって気苦労が多いからだろう。
墓石の前で、
「どうして私だけが残っちゃったの?」
と言ったその言葉が、彼女の気苦労を想像させられた。今までずっと一緒に寄り添うように生きてきた相手と死に別れたのだ。彼女にどれだけのものが残ったのか分からないが、少なくとも、今の彼女は彼の死を受け入れられるだけの納得できるものを持っていないということを示している。
彼女の背中は震えている。泣いているのだろうか?
いや、泣いているのではない。小刻みな震えは、寸分狂いのない震えで、ここまで小刻みな震えで寸分狂いがないということは、感情から伝わった身体の反応ではなく、無意識の中で勝手に身体が反応していることではないか。つまり、彼女には震えているという意識がないに違いない。
彼女は櫻井麻衣だった。
茂とずっと一緒にいたが、結婚することはなかった。だが、なぜか昨年になって、
「結婚しようか?」
と、言いだしたのは茂の方だった。
「今さら?」
麻衣もまんざらではないくせに、一応聞いてみた。
「ああ、今俺がそう思ったんだ。本当は今までに結婚したいと思ったこともあったんだが、言えなかった。いや、言わなかったと言ってもいい。結婚してしまうと、何か大きなものを失ってしまう気がしたんだ」
「今は違うの?」
「失うかも知れないけど、それ以上に、『もうそろそろ自分の感情に正直になってもいいんじゃないか』って思うようになったんだよ。これって素直になったということでいいのかな?」
麻衣は、少し返事のタイミングをずらし、
「いいんじゃないかしら?」
と答えた。
他の人から見れば他人事のように聞こえるが、茂には決して他人事に思えない。
「ありがとう」
今までに何度かしか言ったことのない言葉だった。それだけに尊い言葉だ。麻衣にとってこれほど嬉しい言葉はなかった。
「うん」
一言で返事をしたが、この言葉も一言で言い表せるものではないいくつかの言葉を表現するには、一番的確だったに違いない。
茂が死んで半年が経った。麻衣は毎日のように茂の墓にお参りをしている。早朝の時もあるし、夕方の時もある。茂が樹里の墓を毎日参っていたのは知っていた。そしてそれが夕方であることも……。そのために、
「会ってはいけない二人」
が出会うことはなかった。
会ってはいけない二人とは、茂と由梨のことであった。