墓前に佇む・・・
今の麻衣を見ていると、その向こう側に誰かがいるような気がして仕方がなかった。知り合った頃であれば、それが樹里であるということは察しがついたが、一緒に暮らして五年も経っている中で、一緒にいるのが当たり前のようになっている相手に想定外なことを考えるなどありえないと思っている。それだけに、後ろに誰かの気配を感じても、それを敢えて考えないようにしようというのは、自分の本能から来るものであった。
ただ、今回、麻衣の口から樹里の話が聞けたことで、樹里に対して、いろいろ思い出したことがあった。
樹里の家庭は決して裕福と言える家庭ではなかった。どちらかというと貧しい家庭であり、茂の家とさほど変わらないところが親近感を感じさせるのだと思っていた。
しかし、今から思えば、親近感だけではなかった。樹里に対して淡い恋心のようなものがあったと思っていたが、それは、どこか憧れに似たものがあったのだ。そこには、今の麻衣の雰囲気から匂わせるものがあり、どこか似た境遇を思わせた。
――そういえば――
樹里には、貧しい家庭で育ったわりには、捻くれたところがまるでなかった。素直な女の子でも貧しい家庭に育てば、それなりに反骨精神のようなものが感じられるが、樹里に対しては、骨を感じさせるところがなかった。まるで骨のない軟体動物のように、しなやかな身体が、悩ましささえ感じさせた。
自然な身体のうねりは、打ち寄せる波に紛れて、逆らうこともなく、波に揺られている姿は、高貴な佇まいを感じさせた。
「竜宮城にいる乙姫様のようだ」
と、勝手に想像を巡らせていたが、樹里が乙姫様なら、麻衣は、織姫か、かぐや姫と言ったところであろうか。
――夜空に光る星や月の似合う女性――
それが麻衣なのだ。
――いずれは、かぐや姫のように月に帰ってしまうのではないか?
そんな現実離れした考え方をしたこともあった。五年も一緒にいること自体、考えてみれば、現実離れしている。一緒にいて違和感のまったくない相手だということに間違いはないが、恋愛感情があるのかと聞かれれば、ハッキリと答えることができない。もちろん肉体関係はある。それも自然の成り行きからの出来事だったので、その時は恋愛感情があってのことだと信じて疑わなかった。お互いに相性も悪くなく、自然の成り行きに運命を感じ、至高の刻を共有できたことを、素直に喜んだ。
ただ、油断していると、幸せはスルリと逃げてしまう。その頃も重々分かっているつもりだった。だが、余計なことは考えないようにするのも人間の心理。五年という歳月の間に、何度同じことを繰り返し考えたのか、数知れずであっただろう。
麻衣の境遇は可哀そうなものであったが、引き取られた先は裕福な家庭で、幸せに育ったことを、麻衣の口からも聞くことができた。しかし、どこかにトラウマが潜んでいることは確かで、そのトラウマが、麻衣との生活に感覚をマヒさせる効果があるのだとすれば、茂は自分の運命に翻弄されてしまうことを覚悟しなければならない。
子供の頃に波乱万丈だったことは間違いない。しかも、地獄から天国に変わるというのはどういうものなのだろう。天国から地獄に叩き落とされるのは想像したくもないが、地獄から天国へ救いの手が伸びた場合、素直に幸せとして、受け止めることができるものなのだろうか。茂は麻衣がいることで、自分の人生も天国に変わったと思っているが、元々が地獄だとは思っていない。一緒にいても、麻衣のすべてを理解できないと感じるのは、やはり境遇の違いが一番大きいのかも知れない。
第三章
秋も深まった頃、まわりの紅葉はすでに散りかけて、木枯らしを感じ始めていたそんな夕方、消え入る前の夕日は、必死にその存在を示すかのように海面を照らしていた。
小高い丘の上にある墓地に、一人の女性が何も持たずに墓参りに来ていた。年齢的には二十歳代前半というところだろうか。まじまじと墓前を見ているが、焦点が合っていない。墓碑銘を見ているように見えるが、墓碑銘に描かれている字はすでにかすんでいる。この墓がいつ作られたのか、かなり古いものであるのは間違いないようだ。
大理石で作られた墓ではなく、墓石としては粗末なもので、数十年でもこれくらいに朽ち果ててしまうもののようだ。
墓碑銘に書かれている文字は、
「松倉樹里」
行方不明になってそのまま七年が経ち、そのまま死亡してしまったことになった樹里の墓である。もちろん、中にお骨は入っていない。
まるで無縁仏のようだ。本人は死んでいるということなので、本当に葬られた場所は違うところにある。墓参りに来た女性はそのこともよく知っている。それでもこの場所に来たということは、短い間だったとはいえ、この土地で生まれ、幼少を過ごした場所だったからなのかも知れない。
彼女は墓に参ると、おもむろに立ち上がり、踵を返してその場を去るかと思われたが、目の前に広がる海を見ていた。眩しさに目を奪われながら、微動だにせず立ちすくんでいる。その先に見えるのは、「くじら島」であった。
彼女は樹里が「くじら島」で過ごし、そこで葬られたことを知っている。この場所からくじら島がどのように見えるかを見てみたかったというのも本音であった。
「あんなに小さく見えるんだ」
と、彼女は独り言ちた。
くじら島は今でこそ、何もない小高い丘に木が生え揃ってしまっていて、人も住めないような島になってしまったが、以前は軍需工場があり、その跡地に樹里が住んでいた。
樹里がそこに住んでいたのは果たして偶然だったのだろうか?
樹里は、家に帰りたくないと言っていたが。その理由を誰も知らない。いや、もし知っているとすれば、他ならぬ両親と、祖父母だったのかも知れない。
樹里の家は、田舎街でも昔からの旧家で、「血のつながり」というものを大切にする家庭だった。
今でも樹里の両親は、
「樹里には気の毒なことをした」
と、心の中で思っている。だが、それもすぐに打ち消した。あまりにも年月が経ちすぎていたからだ。父親はそれでいいと思っているが、母親にしてみれば、月日が経つことで事実が風化されてしまい、自分がそれで許されると思ってしまうことに対して許せない気持ちになっていた。
彼女の脳裏には、こんな光景が浮かんできた――
「これは仕方がないことなんだ。松倉家を守るためだったんだからね」
と父親がいうと、すすり泣いている母の後ろから祖父母が現れて、
「そうじゃ、これはわしらのずっと前のご先祖様たちから受け継がれてきたものであって、そのためには修羅にもなろうというもの」
母は半狂乱になり、
「それじゃあ、人一人の人生なんて、どうでもいいっていうの?」
「そうじゃ、それがわしらの仕事でもあり、運命なんじゃ。これを受け入れなければ、松倉家だけではなく、このあたりの秩序のバランスが崩れて、わしらの想定外のことが起こったりする。そうなれば、どうしようもなくなるのじゃ。もう、我々だけの問題ではなくなるんだ」