墓前に佇む・・・
「でも、これは樹里ちゃんが自分の意志を持って描いたもの。何かを訴えようとしていることは、先生が見ればよく分かると言っていたらしいの」
「何を訴えようとしていたんだろう?」
「樹里ちゃんは原色が大好きだったようで、色が混ざっていないのは、彼女が意識しているというより、本能からのものかも知れないわね。そして青い部分は私たちが感じるグレイで曖昧な精神状態、真っ赤に見えるのは、事実として見えてきたものを描いたもの。そして黄色は、自分の中の整理できない部分を、気が違っているという意識を持って、わざと黄色で示しているというのよ。ここから何を感じる?」
すべての色が分散して描かれているわけではなく、陸続きの地図を見ているようだ。すべてが曲線で描かれているので最初は分からなかったが、
「これは、色がバラバラに配置されているのでよく分からなかったけど、それぞれの色の配分がすべて同じ大きさになっているんだ」
茂は、自分で言って、
「信じられない」
と付け加えた。
「でも、さすがにあなたはすごいわね。私が聞いたからマジマジと見たから分かることもできたんでしょうけど、普通はすぐに分かるものではないわ。やっぱりあなたは、樹里ちゃんの『唯一の味方』だったのね」
味方であったことは否定しないが、まさか唯一とは思わなかった。もちろん、それ一緒の街で済んでいる時のことであって、いなくなってからの自分の知らない樹里が、一体どんな気持ちだったのか思い図ることは、今となっては不可能に近い。
麻衣がどうして今になってこのことを話してくれたのか分からないが、
「どうして、今になって?」
と訊ねると、
「どうしてなのかしら? しいて言えば、このスケッチブックの意味が分かったからなのかも知れないわ。でも、あなたにこうも簡単に看破されるとは思わなかったわ。私がずっと考えていても分からなかったのに」
「僕にも分からないけど、少なくとも、麻衣よりも昔の樹里ちゃんを僕が知っているということかな? 根拠としては薄いものなんだけどね」
「確かに根拠としては薄そうだけど、でも、確かにその通りなのかも知れないわね。私にとっても樹里ちゃんとは少しの間だけど、一緒に遊んだ記憶が残っているわ。でも、スケッチブックの意味を分かってきたのは、敢えてその記憶を封印してしまおうと思ったからなの。皮肉なものだって私は思うわ」
「でも、自分の中の感情が、喜怒哀楽、すべて同じ大きさになっているというのは、バランスが取れていると言えるんだろうか?」
「私はそうとも言えないと思うの。それこそ人それぞれなのよ、すべてが均衡が取れていれば、感情が表に出ることはないでしょう? まるで抜け殻になってしまったような気がすると思うの」
「しかも、その時々で、感情には起伏があるから、青が大きい時もあれば、赤が大きい時もある。でも、麻衣の場合は、悲しかったり辛い記憶しかないと思うと、均衡を取ることで何とか精神状態を持たせているだけにしか感じない」
そう言って、茂は下を向いた。
「可哀そうに……」
麻衣もそう言って下を向いた。
「麻衣が僕のところに来てくれたのは、樹里ちゃんの記憶の中に僕がいたということだよね?」
「ええ、サナトリウムでの治療の際に催眠療法の中で分かったらしいの。そのことを私が知らせに来たんだけど、遅くなったのは、彼女が意志を封印している間は、あなたに話すことは無理があるという結論だったの。あなたには悪いという思いもあったんだけど、遅くなってしまってごめんなさい」
「それはいいんだ。僕の方こそ知らせてくれて礼を言いたいくらいだよ」
麻衣と話をしていると、いろいろ分かってきた。しかし、それでもまだ麻衣が何かを隠しているように思えてならない。
――木を隠すなら森の中――
というではないか、ひょっとすると、隠したい本質は他にあって、それをカモフラージュするために、わざとこの話をしたのかも知れない。疑えばいくらでも疑えるが、麻衣の話を真剣に聞いてあげることが、今の茂には一番肝心なことに思えていた。
茂にとって麻衣は今の自分に空いた風穴を埋めてくれる大切な人だった。本当は樹里のことより、今の麻衣との生活の方が大事である。それを麻衣は分かってくれているのだろうか?
「麻衣に謝られると、くすぐったい気がするな」
苦笑いを浮かべた茂、それを見て、麻衣も苦笑いを浮かべた。会話が噛み合っていないわけではないのにお互いに苦笑いが出るものなのだという思いが茂の脳裏をよぎる。
麻衣の話を聞いていて、もし今自分の目の前にスケッチブックがあったとすれば、どうんな絵を描くだろう?
まさか樹里が描いたような絵にならないことは確かだ。赤い色を血の色だという意識もないし、むしろ明るい色として好きな色のはずだった。
茂はスケッチブックに描かれた「陸続きの地図」を眺めていた。樹里が何を思って描いたのか、そして、この絵を最初に見た麻衣が何を感じたのか、そのことが気になって仕方がなかった。
しばらく絵を眺めていたが、結論が生まれるわけもない。ただ、この絵の中に見えてきたものは、同じ感性で同じ人が描いたとして、次に同じ絵を描けるかと言えば、きっと違う絵になるのではないかと思えた。この世に一つしかないこの絵が何を言いたいのか、その時に遡らなければ分かるはずはないのだ。
「麻衣は、最初に僕のところに来てくれた時、樹里ちゃんを知っているとは言っていたけど、ここまで深い関わりがあることは言わなかったよね。頭の中で整理がつかなかったから?」
「それもあります。でも、あの時、今の話をして、あなたが納得できないと思ったのも事実です。何も知らない相手から間接的に聞かされても信憑性はないでしょう?」
「抽象的なところ、そして、自分にとって想定外なものというのは、話をしてくれる相手を信じないことには、信憑性は疑わしいとしか言いようがないからね」
それにしても、五年も掛かったというのは、少し解せない。それよりも、五年も経っているのだから、このまま黙っておいても、麻衣にとっては何ら問題はなかったはずだ。実際に茂としても、
――麻衣がいてくれればそれだけでいい――
という思いに至っていたのも事実だ。何を今さら昔のことを蒸し返す必要があるのかということを言いたいくらいだった。
そもそも麻衣がここにいることも、まるで夢のようだ。お互いに普通に知り合って、普通に付き合い始めたわけではない。
――付き合っていると言えるのか?
交際の後に同棲というのが普通の流れなのだろうが、自分を訪ねてきた相手が行くところがないという理由だけで、家に泊め、さらに、五年も一緒にいるというのは、普通なら夢のような出来事のはずなのに、茂には最初から決まっていたことのように思えてならなかった。
――運命として受け入れていたつもりだったが、果たしてそれでいいのだろうか?
という思いは常々あった。しかし、二十歳過ぎくらいの年齢であれば、こういうこともあっていいのではないかと思うのは、自分に都合よく考えすぎなのであろうか。