墓前に佇む・・・
敦美は母親に自分が考えていることを話す勇気がない。元々、敦美が中学時代くらいから、母親の様子が少しおかしくなってきた。病院に行って検査をしてもらったが、別に問題はないという。神経内科に行ってみたのだが、肉体的なところでは問題ないとしながらも、精神的な面としては、さすが専門家、催眠療法でも使って、潜在意識を引き出したようである。
「ただ、気になることとしては、夢を見ている時、もう一人の自分が現れるらしいんだけど、一生懸命に誰かに対して謝っている態度しか見られないっていうんだ。誰に謝っているのか分からないんだけど、それがトラウマとなって残っているから、人に謝らなければいけないという使命感のようなものがあるんだろうね」
「母は、今の自分の夢を見ているのかしら?」
普段は、毎日何を考えているのか、抜け殻のような雰囲気だからこそ、医者にとって容易に母の中に入りこめたのかも知れない。
だが、逆に入り込まれやすい人の潜在意識は、今の時代というよりも、過去にあった何かで印象に残っていることが、引き出された潜在意識に時間を飛び越える意識があるのかも知れない。
この中年男性が敦美の前に現れたことにより、敦美は少し前に進めるようになるのではないかと思うようになっていた。
第二章
夏も終わりごろになると、夕方にはだいぶ涼しくなる。前の日に降った雨の影響はほとんどなく、吹いてくる風は、秋の気配を感じさせるものだった。
小高い丘の上に見える墓地に、一人の男性が水を持って現れ、もう一方の手には墓前に手向ける霊前花が持たれていた。汗が吹き出しているように見えるが、両手が塞がっていることもあって、拭うこともせず、肩で呼吸を整えながら、上まで上がってきた。
「今日も来ていたんだな」
と、独り言ちて、しおれることのない花を見ながら、男はその場に立ちすくんでいた。水の入った樽の中に持ってきた花を入れ、足元に下ろし、たっぷりと柄杓に水を入れて、墓石の上から水を流した。
「少なくとも俺たち二人は、毎日のように君の墓前に顔を出している。決して忘れることのない二人がいることを忘れるんじゃないぞ」
と言って、墓前に話しかける。
その顔には安堵の色が見えていて、本当に墓の主と話ができているんじゃないかと思わせるほどだった。毎日の日課になっていたとしても、決して生活の一部だとは思っていない。一日の中でかけがえのない時間だとしか思えなかった。
線香の匂いもまだ残っているかのようだった。すでに火は消え、煙は残っていない。それでも匂いだけは残っているように感じるのは、墓の主が何かを語り掛けてくれているようで、
「そうだね、君は寂しくないと思ってくれているんだね。悪かった、僕が勘違いしていたようだ」
と言って笑いかけ、腰を下ろして合わせていた手を外し、片方の手で、もう一度柄杓に水を持ち、墓前からたっぷりの水を飲ませてあげた。
今度はさっきまで香っていた線香の匂いが消えていくのを感じた。そして、改めて持ってきた蝋燭と線香に火を付けて、新たな供養の始まりだった。
「君は分かってくれているかも知れないが、俺だってケジメを付けたいんだ」
もう一度手を合わせながら、
「何のためのケジメだって? そうだな、君に対してばかり思っている気持ちを少し他にも向けてみたいと思う。もう、いいよね?」
墓が答えるわけもなく、文字通り石のごとく、どっしりと構えているだけだった。
「俺なりにケジメをつけようって、ずっと思っていたんだぜ。君がそのことは一番分かってくれているんじゃないかい? 彼女だって君がよこしてくれたんだって思うのは、俺の勝手な発想なのかな?」
男はさらに続ける。
「まあいい。俺がこうやって毎日のように墓参りしているけど、それが君にも重荷になってくるんじゃないかって思うこともあるんだ。さっきの言葉とは矛盾しているように思うかも知れないけど、そうじゃないんだ。こうやって墓参りしているうちに、住む世界は違っても、気持ちが通じ合えていると思っている。だから、お互いに、そろそろ許し合ってもいいと思うんだ。僕は君のことを怒ってもいないさ。俺がそっちに行くまで、君に待っててくれなんて言わない。それにこの世で、もう一度会いたいなんてわがままは言わない。だから、迷わずに成仏してほしいんだ」
男の目から涙がこぼれている。
しかし、それは悲しくて泣いているようには思えない。何かを吹っ切ったような表情が笑顔から現れていて、涙も悲しいから流すわけではないということを、その男は今初めて知ったに違いない。
「生きている人間は幸せになる権利があると俺は思っているが、死んだ人間だって、幸せになる権利はあるのさ。ただ、この世の幸せと、幸せの度合いが違うのかも知れない。何しろ世界が違うんだからね。話ができるわけでもないし、顔が見えるわけでもない。だからまったく分からないというのが本音なんだけど、僕は君とここで話ができると思うことが真実であり、自分が生きている証のように思っている」
ゆっくりと立ち上がって、足をさすってみた。さすがに少し足がしびれたのか、それほど長く腰を下ろしていたようには思えなかったが、違う世界の人と話をしているのだから、時間的な感覚などあってないようなものであろう。
「格好のいいことばかり口にしてしまったかも知れないが、これが俺の本心さ。今までは、毎日同じ時間にここに来ていたけど、今度からは同じ時間に来るとは限らない。日課がお互いに重荷にならないようにしようと思う俺の気持ちさ」
男はそういうと空を見上げた。
毎日のように墓参りをしていることで男は、いつの間にか自己満足に浸ってしまっていることに気が付いた。自己満足は悪いことばかりではないが、相手があることであれば、いいことでもないだろう。自分なりに頭を整理しながら話しかけたことは、その男の本心であるに違いない。
夏の終わりに豪雨が降ることがある。
「ゲリラ雷雨」
などという言葉で表現されるが、入道雲が張り出すのもこの時期だ。
夏の熱い時期を通りすぎて、夕方にはだいぶ涼しい風が吹くこの時期を、彼は嫌いな時期ではなかった。
この時期独特のゲリラ雷雨と、頻繁に襲ってくる台風さえなければ、秋が近づく前に少しホッとした気持ちになれるという意味で、楽しみな時期だった。
本当のことを言えば、夏は嫌いだった。特に海は大嫌いで、子供の頃に潮風に当たると、必ず次の日には発熱してしまったという記憶だけが残ることで、湿気を感じただけで、今でも頭痛に襲われることがある。
梅雨の時期とこの時期とでは、感じ方が違っている。ただ鬱陶しいだけの梅雨の時期は、最初から自覚していることもあって、それほど苦痛を感じずにスルーすることができる。しかし、夏の終わりに襲ってくる芸鵜と台風には、仕方がないという一言で片づけられないものを感じていた。
「誰かの意志が働いているようだ」
一体誰の意志なのか? 夏の間という一年で一番嫌いな時期をなるべく何もなかったようにやり過ごそうという気持ちは昔からあった。学生時代の仲間は、夏を楽しみにしている連中が多かった。