表裏の真実
「もういいですよ。警察なんて当てにならないんですからね」
と捨て台詞を残して、その場を立ち去った。
逆上していたので分からなかったが、警察の方とすれば、いい加減鼻についてきた相手を追い返すために、わざと怒らせるような言い方をしたのだろう。市民警察としては、いっていいことと悪いことのギリギリの線だったのかも知れない。
――いい加減にしてほしいわ――
逆上した頭も、ある一定の時間を過ぎると、急に冷めてくるものだった。
そんなことがあってから、由梨は警察を信用しなくなり、何かあった時はマスコミの力を借りて、警察の国家権力に立ち向かうという気持ちになっていた。
そんな時、由梨の頭の中は警察に対しての怒りと、これからどうすればいいのかという途方に暮れた気持ちの中で、完全に二分されたような気持ちになっていた。歩いている時もいつもの道を歩いているつもりで、気が付けば知らないところを歩いていた次第で、
――いったい、どこを歩いているんだ?
と思ったとき、目の前にあったのが、このお店だった。
店の名前は、バー「メタモルフォーゼ」、日本語に直せば「変身」という意味だそうだ。言葉も意味も知っていたが、それを店の名前にするなんて、少し変わっている。バーのような店は、一人佇みたい時に、隠れ家のような気持ちで利用するものだと考えていたので、そういう意味では、「メタモルフォーゼ」という言葉は、的を得ているのかも知れない。
店の中に入ってみれば、そこには一人マスターがいるだけだった。
――これはありがたいわ――
もし、他に客がいれば、踵を返して出てこようと思って入った店だった。
「いらっしゃい」
マスターはにこりともせず、こちらを振り向くこともなく、声だけをかけた。
それは、まるで社交辞令のようにも聞こえ、一瞬ムカッときたが、普段なら怒りを感じ、店を後にしたかも知れないが、その時はなぜか、店の中に吸い込まれるように入ってくると、気が付けば椅子に腰かけていた。
「初めてですよね」
椅子に座ると、正面にやってきて、マスターは由梨の顔を見ながら、そう言った。最初の態度と雲泥の差だった。
「ええ、このあたりを歩いていたら、急にお店の看板が目に入ってきたんです」
半分はウソだが、残りの半分は本当のことだった。
このあたりを歩いていたのは無意識だったが、店の看板が見えてから、この店に入るまでは、自分の意思が働いていた。確かに吸い寄せられる感覚はあったが、やめようと思えばやめることもできたからだ。
やめようと思ってやめなかったということは、そこに自分の意思が働いているのは明白だった。
マスターは、カウンター越しに由梨を少しの間見つめていたが、すぐに視線を切らして、それ以降、目を合わすことはなかった。
――どうして視線を切ったんだろう?
由梨は自分が悪いのだと思った。
由梨は自分の心が折れかかっていたり、折れてしまったりした時、すべてを自分のせいにしてしまうところがあった。自分がかかわっていないことでも、自分が悪いから、落ち込むようなことになるという思いを子供の頃から抱いていた。
「何か災いが起こると、すべては自分の行いから来ているのよ」
と、死んだおばあちゃんから何度か聞かされたことがあった。
おばあちゃんがどういう意図でそんなことを口にしたのか、今でも分からないが、その言葉は子供の由梨には衝撃で、トラウマのようにもなっていた。
その言葉をずっと半信半疑ではありながら、信じているという意識を持って感じていた。今までにも半信半疑でありながら、信じてきたこともいくつかあったが、そのほとんどは、おばあちゃんの口から出てきたのだった。
特に妖怪が出てくるような怖い話だったり、地獄絵図のような雰囲気をイメージさせる話はよくしてくれたので、今でも、
「そんなバカなこと、信じられないわ」
と口で言っていることでも、心の中では、
「信じられないと言っている自分の口が信じられない」
と思っていたのだ。
由梨は、マスターを見ながら、
――どこか、おばあちゃんに似ている――
と感じた。
おばあちゃんは優しい人で、誰にでもその優しさは変わらない。しかし、由梨に対しては、その優しさが、時として冷たく感じられることがある。もしそれが他の人に対してのことであれば、冷たく感じることなどないはずなのに、冷たく感じてしまうということは、それだけ、
――おばあちゃんは暖かくなければいけない――
という意識を植え付けられているからなのかも知れない。
由梨は、おばあちゃんが無口な時を思い出していた。
基本的には無口なので、普段を思い浮かべれば分かることなのだが、由梨に対してだけは、饒舌な時も無口な時も、同じ顔をしているのだった。
だから、次にどんな言葉が出てくるのか想像がつかなかった。
同じ表情なので、おばあちゃんが怒っているのか、それとも楽しんでいるのかすら分からない。
しかも、おばあちゃんはめったなことでは怒らないが、
――急にどうして怒る必要があるのか?
と思うような時に怒り出すことがある。
おばあちゃんが理不尽な怒り方をしたことは一度もないと母親から言われたことを思い出すと、悪いのは自分の方だと思ってしまっても仕方のないことだろう。
だから、相手が自分の想像を逸脱した行動や言動に走ると、その原因は自分にあるのだと思えて仕方がないのだった。
これは、決して喜ばしい性格ではない。下手をすると被害妄想になりかねない。自暴自棄に陥ったり、自虐的な気持ちになったりしかねない。しかし、由梨の場合はそんな時、自分が悲劇のヒロインになりかかっていることにいち早く気づき、何とか、そこまでには至らないようにしていた。
マスターが由梨に話しかける時、他の人を相手にしているのとでは違うという感覚が持てたのは、おばあちゃんの印象とダブるところがあったからに違いない。
「由梨さんは、このバーのどこが気に入っているんですか?」
と、岡本に聞かれた。
急に聞かれても、果たしてどこがいいのか、考えたことはあるが、結局、堂々巡りを繰り返した結果、また同じところに戻ってくるという感覚に陥ったことで、考えるのをやめてしまった。
「さあ、どこなんでしょうね?」
と、はぐらかしながら、マスターをチラ見すると、マスターは苦笑いを浮かべてはいたが、こちらを振り向くことはなかった。
「皆さん、そういいますよ」
と、ボソッとマスターが言った。
――えっ? 今、それを言う?
と、由梨はビックリして、固まってしまい、まるでハトが豆鉄砲を食らったかのような表情になっていたことだろう。
あっけに取られたはずなのに、なぜか由梨の表情は笑っていた。どこか呆れて笑っているかのように感じられたが、そうではない。何か見えない力に笑いを作られたような気持ちだった。
――笑いなんて、こんなに簡単にできるんだ――
と、呆然としてしまっていた。
おばあちゃんと一緒にいる時、急におばあちゃんがお母さんに見える時があった。
存在感はお母さんよりもおばあちゃんの方が強かったのだが、現実的なことになると、どうしても母親が先に思い浮かんでくる。