表裏の真実
「ええ、そうですね。ダムというのは、水が溜まっているところの下には、元々村があって、そこに住んでいた人が確かに存在した。当然、立ち退きの問題などが浮上してきて、そこに市町村と建築会社の間の談合や密約などの汚職が絡んでくると、ややこしい話になりますよね。中には住み慣れた村を離れるくらいなら死んだ方がマシだと言って、抗議の自殺を企てる人もいたり、あまりにも買収に応じない人には嫌がらせや露骨な立ち退き要求があったりして、死活問題にまで発展して、残っている住民の気が触れたなんて話も聞いたことがありました。実に悲惨な話ですよね」
その話を聞きながら、岡本は腕組みをし、黙って頷いていた。
「僕もルポライターをしながら、そんな話を聞くこともあったりすると、溜まらない気持ちになったこともあります。ダム建設は確かに、都会の人の大事な水源であり、何百万人の死活問題にもなりますからね一人や二人の意見だけを聞いているわけにもいかないのも事実なんでしょうね」
岡本は、きっと今までに似たような取材を試みたことがあったのだろう。その時に感じたことを思い出して、自分が感じていたことを反復しているようだった。
「でもね、ダムの話もそうなんだけど、元からダム建設を計画するような場所だからこそ、昔からの言い伝えが残っているところなんだという見方もあるような気がするんですよね」
と、マスターは語った。
「どういうことですか?」
「ダムというのは、当然山の中腹から、山頂に向かっての村にしか作れないですよね。川として流すわけですから、高い位置にないといけないんです。高い位置にある村というのは、村から下界に降りてくることはあっても、平地の人間が、わざわざ山奥の村に、進出してくることもないでしょう。だから閉鎖的になったり、その村独特の物語が受け継がれたりする。それを思うと、今はなき山奥の村に思いを馳せるというのは、時代を遡っているという意味で興味深いことですよ」
「昭和の時代を思わせるエピソードですね」
「ええ、そうですね。私などは平成生まれなので、なかなか昭和といわれてもピンと来ませんけどね」
とマスターが言うと、
「私もですよ」
と、岡本が言った。
どうやら、二人ともまだ三十歳には達していないようだ。
見ている限りでは、マスターの方が貫禄があった。岡本はジャーナリストとしてフットワークが軽いせいか、落ち着きがないように見える。先走って危険な道に入り込んだりする危険性もあるのだろう。あまり近寄り過ぎないようにしないといけないと、由梨は感じていた。
逆にマスターは実に落ち着いて見える。カウンター越しにいつも正対しているが、なぜか真正面から見つめあったことはない。相手が誰であってもそうなのだろう。マスターのような人はどんな女性が好みなのか、あるいは、こんなマスターを好きになるような女性がいるとすれば、どんな人なのか想像ができなかった。少なくとも由梨には、マスターを好きになりそうな予感は、まったくなかったのである。
しかし、マスターの話には説得力があった。いつも正論だけを語っているので、普通に聞いていると、スルーしてしまいそうになるが、それは彼の話に説得力があるからであって、他の客がどう感じているのか分からないが、由梨にとってマスターの話は聞いていて飽きることはなかった。
由梨が店に来る時は一人の時が多い。他の客がいることもあるが、その人と直接話をすることは少なかった。それでも案スターを介して話すことはあった。当然話の中心はマスターだった。
常連同士ではありながら、面識のほとんどない二人を相手にしなければならない時というのは、結構精神的にもきついだろうと思っていたが、さすがにマスターは話題が豊富で、そんな時の話題もしっかりと用意していた。
「これでも、ネットでいろいろ検索したりしていますからね」
と言っていたが、それ以外に話題の元になることがあるのを、最近になって知った。
この店の客は常連ばかりと言ってもいい。バーともなると、一見さんが一人では入りにくいというイメージがあるが、まさにその通り、それこそネットや口コミでもなければ、一人でフラリと入るのも難しいだろう。
しかし、由梨の場合は、一人でフラッと入った店だった。後にも先にもフラッと一人で入った店はここだけだった。
ちょうど、その時由梨は憔悴状態にあった。
あれは二年前のことだった。彼女は一人の男性と付き合っていたが、その彼が交通事故で亡くなったのである。その場所は、事故多発地帯の中の七日辻であったが、それだけに、どうして交通事故などが起こったのか、究明したくて仕方がない。犯人はそのまま逃走し、ひき逃げ事件として、捜査が開始された。あの場所は車同士の死亡事故は起きていないが、車が人を跳ねるということは、普通に怒っていた。
しかし、数ヶ月もしないうちに、捜査はまったく進展を見せることもなく、打ち切られることになった。
「どうしてなんですか? もっとしっかりと調べてください」
と、由梨は警察に詰め寄った。
彼の家族はというと、すでに諦めの境地に達していた。
「どうせ、警察なんて通り一遍の捜査をするだけで、適当に捜査して、一段落付けば、そこで捜査を打ち切るものなのよ。しょせんは綺麗ごとを言っても他人事、公務員だってことなのよ」
と言って、下を向くばかりだった。
ひょっとすると、警察から余計なことは言わないように圧力が掛かっているのかも知れない。
由梨に対しては家族ではないので、圧力のかけようがないようなのだが、
「そのうちに黙るだろう」
という程度にしか考えていなかった。
まさか、事故多発地帯の情報を、マスコミにリークしているなど、想像もしていなかっただろう。
死んだ彼の名前を松山明人と言った。
松山は、その日の夕方、七日辻を歩いていて、車に轢かれた。
元々、彼がどうしてあんなところを歩いていたのかというのも、由梨には分からなかった。あそこを通ってどこかに行くなど、由梨が知っている限りでは考えられないことだった。
その話も警察には言った。
「あの人がどうしてあそこを歩いていたのかも、捜査をしてください。あの人があそこを歩く理由などないんです」
と食って掛かっても、最初は、
「そうですか、貴重な情報をありがとうございます。こちらもそれを考慮に入れて、捜査してみます」
と言っていたのに、捜査が進展しないのは、そのあたりの事情を警察が調べてくれていないことが原因だと分かると、警察がだんだん信用できなくなった。
しかも、とどめに、
「そう思っているのはあなただけなのかも知れませんよ。彼も男ですからね。人に知られたくないような場所に向かったのかも知れませんね」
と、口調は滑らかだったが、明らかに挑戦的な口調だったのを聞いて、由梨はムカッときた。
「それはどういう意味ですか?」
完全に逆上した口調になった。
まるで相手もそれを見越して、わざと逆上するように仕向けたのかも知れない。
「あなたの知らない女がいるかも知れないということですよ。最後まで言わせないでください」
見下したものの言い方に、由梨はイライラを通り越した。