表裏の真実
「まさか、そんなことはないですよね?」
由梨の唇は次第に色を失い、紫色に変わっていった。まるで冬の海に飛び込んで、寒さで震えている時の唇の色のようだ。
その様子を、他人事のように見ている農家の彼女は、
「私には難しいことは分かりません」
と言いたげに見えるが、それだけに、いきなり看過されてしまったことで、一気に恐怖へと変わった由梨にとって、その表情は虚偽以外の何者にも見えなかった。
「そういえば、ここのお宅には、今はあなたしかおられないように見受けられるんですが、他の方はどうされたんですか?」
と、岡本が訊ねた。話を聞いているうちに、由梨の血の気も戻ってくるのではないかという思いが働いたのだろう。
「皆、今、出払っています」
「そうなんですね。ところで、あなたは、ここの奥さんなんですか?」
本当であれば、ここまで突っ込んだ質問は失礼に当たるのだろうが、岡本には気にならなかった。自分も閉鎖的な街の出身ということで、それくらいのことを聞いたくらいで、相手がいちいち気に触ることはないと思ったのだ。
その発想に間違いはないようで、彼女は表情一つ変えることなく、
「ええ、ここの嫁で、塩崎文香といいます。よろしくお願いします」
と挨拶していた。
その様子はまるで、舞妓さんのような立ち振る舞いを思わせ、文香も旧家の出ではないかと思わせた。
「失礼ですが、こんな田舎に嫁いで来られて、かなりご不自由されたのではないんですか? 私も田舎が閉鎖的なところだったので、何となく分かる気がするんですよ」
その言葉に、今まで感情を表に出さなかった、いや、出そうとしなかった文香が反応した。
「どちらの方なんですか?」
「私は、東北の方ですね。九州とはだいぶ趣が違っているかも知れませんが、閉鎖的なところというのは、限られた世界での発想になるので、案外似通っているのかも知れませんよ」
「そうかも知れません。私も実は出身は九州ではないんですよ」
「どちらなんですか?」
「山陰の方ですね。しかも中国山地の裏日本側になるので、まわりも結構過疎化していました」
「それで、嫁入りが九州のこの街だったわけですね」
「ええ、私の育った街より、よほど都会に感じられます。でも、この集落だけは孤立しているようで、私だからよかったのでしょうが、中途半端な田舎出身の人では、とてもやっていけるところではないでしょうね」
「それは、風俗、文化が違うという意味ですか?」
「風俗、文化が違うということは、そこに住んでいる住民の考え方も違うということです。一筋縄ではいきませんが、明らかに違う部分がありますね」
「私も田舎にいる頃、嫌というほど味わった気がします。特に男と女とでは、考え方も違えば、まわりから見る目も違いますからね」
「どうしても、昔ながらの田舎では、いまだに封建的なところが残っている。女性蔑視のところもあるくせに、子孫繁栄には女性が主役ですからね。ここだけは、男性禁制の世界になりますね」
岡本の田舎でも、女性に対して特別な思いが誰にでもあったが、それがどこから来るのか分からなかった。今の話を聞いて、子孫繁栄のためにあがめられていたという理屈で、もう一度思い出してみると、今まで結びつかなかった思いが一気に結びついたような気がしてならなかった。
「私の生まれた山陰地方は、出雲にも近いところだったので、いろいろな伝説が残っていたりするんですよ。でも、それは神様に対する伝説だけではなく、怨霊に満ちた伝説だったりもあって、子供の頃には混乱したりしましたね」
「なるほど、確かに私も山陰地方に密かに興味を持っていたりしたんですが、出雲に纏わる話だったり、邪馬台国の伝説も山陰地方には残っていたりしますからね。邪馬台国伝説には、純血思想もあり、他の土地の人間と契ることを許さないという発想もありました。そのためには略奪愛も存在したり、今では許されないことも、純血主義のためなら許されることもあったようですね」
「私の生まれたところにも、その話はありました。だから許嫁というのは絶対のもので、生まれた時から自分の運命が決まっていたと言っても過言ではないんですよ」
「でも、奥さんはよくその土地から離れられましたね?」
「私は五人兄弟の三番目だったので、比較的厳しくはなかったんです。長男長女はそれこそ雁字搦めに決まっていましたけど、二番目以降は、ほとんど純血主義に対して眼中にはないんです。ただ、他の人と結婚するなら、村を出なければいけないというしきたりにはなっていました。私はこれ幸いということで、逃げるようにこの街に嫁いできたんですよ」
それがよかったのか悪かったのか、二人には分からなかったが、同じ女の立場として、由梨の方が彼女の気持ちを分かる気がした。
「でも、生まれた時から運命が決まっているというのも、寂しいものですよね」
岡本がそう言った。
「そうかも知れません。自由という言葉だけを考えると、きっとそうなんでしょう。でも、この世には、目には見えない何か強い力が存在しているというのは、本当だと思うんです。だから、決まった運命には逆らえないようになっていて、ただ、それを人間が決めていいものかどうかということですよね。私の生まれたところでは、遠い昔に神様が決めたのであって、決して人間が決めたことではないと言われてきました。そうじゃないと、自分の運命を同じ人間に決められるということに少なからずの抵抗がありますからね」
「あなたの育った村では、神様に対しての崇拝神話のようなものがあるんですか?」
「神様に対しての神話的なものはありましたが、それが直接、人への支配に結びつくようなことはありませんでした」
「山陰地方に取材に出掛けた時、ほとんどの土地では、神様を祀るためにいろいろな嗜好がありました。でも、皆同じだったというわけではないんです。その土地土地で、微妙に違っていたんです。最初は同じだと漠然と思っていましたので、そのことに気づくまでにかなりの時間が掛かりましたけどね」
「よく気づかれましたね」
「ええ、その時に私は感じました。最初に固定観念を持ってしまうと、見誤ってしまうことを利用しているのではないかとですね。だから、どの村も大げさに崇拝のための祭場を作り、まわりからの目をごまかしているんじゃないかってね」
「でも、それだけではないんです。確かに最初はそうだったようなんですが、元々は、大きな村があったそうなんです」
「まるで邪馬台国のようですね」
「そこまではないと思うんですが、確かに一人の絶対的なカリスマ人物がいて、その人が統治することで、村は繁栄し、安定していたんです。その人が亡くなると、村は次第に分裂傾向が強まってきて、長い年月をかける間に、本当に独立する村ができてきた」
「どうして、長い年月がかかったんですか?」
「村は強大な力を持っていたんですが、それはすべてが集結しているからですね。ただ、そのまわりにも、その村に敵いこそしまいまでも、そこそこの力を持った村が乱立していた。独立するということは、それらの村と直接対峙することにもなるし、元々いた村からは、独立した村ということで、それなりの敵視は覚悟しなければいけないからなんですよ」