表裏の真実
「晴れているのに湿気を感じると、なぜか寒く感じることが僕にはあった。田舎の街でのことだけどね。それを思い出せば、今のこの状況は不思議のないものに思えるんだ」
二人は寒気にも慣れて、今度は耳を澄ませてみた。
「カッコーの泣き声が聞こえてきますね」
「そうだね。同じジャーナリストの仲間の中に、バードウォッチングが趣味のやつがいて、そいつから山の声だって言われて聞かされた音声を思い出したよ。まさにこんな感じだったな。あの時は、その音を現地で聞いてみたいと思ったけど、思い出してみたら、その現地がここだと言われても、疑うことはないだろうね」
彼の中で現地がどこであろうと関係なかった。
――音声に似合った景観が目の前に広がっているだけで、それでいいんだ。何の理屈もいらない――
と感じていた。
「事故が多発する場所というのも、こんな感じのところなんですか?」
「少し違います。こんなに狭い範囲ではなく、もう少し開けたところなんです。近くにはダムがあって、ダム湖の周囲を走っているところなんですが、大きなカーブになっていて、スピードを出しすぎて曲がり切れなかったりする場合は、万が一目の前から車が来ていれば、確実に巻き込まれます」
「なるほどですね。では、その場所に行ってみましょう」
再び、岡本はハンドルを握り、車を走らせた。
しばらく上り坂を進んでいくと、まわりの森が開けていき、そこからは、平地の道が広がっていた。道は蛇行することもなく、普通に直線の道が続いている。
標識には直進すればダムがあり、そこまで三キロと表示されていた。
「ダムまで、すぐそこなんですね」
「ええ、もうすぐ、ダムの腹が見えてくるはずですよ」
どういう言い方が一番適切なのか分からなかったので、とりあえず「ダムの腹」という表現を使った。少し笑みを浮かべた岡本は、言葉のニュアンスを察してくれたのだろう。ダムを想像しているようだった。
「私は取材で全国に行くので、大きなダムは結構見慣れているんですよ」
と言った岡本の言葉に、
――羨ましいわ――
と由梨は感じた。
なぜなら、由梨は今までこの街を離れたことはない。家族で旅行に出かけることもないので、他の県に出かけたことがあるとすれば、修学旅行くらいだった。
もっとも、それは由梨が自分で望んだことであり、
――別にどこに行っても、何も変わりはしないわ――
という思いが強かったからだ。
短大時代に旅行に誘われたこともあったが、その友達の目的は、完全に男だった。そんなみえみえの旅行についていく気など、さらさらなかった。どうせ行ったとしても、自分は彼女たちの引き立て役に利用されるだけで、ただの人数合わせにしかすぎないのもわかっていた。
最初に合コンに誘われた時がそうだったからで、人数あわせで呼ばれた人は、決して目立ってはいけない。抜け駆けなど、当然許されることではなかった。
しかし、そんな時に限って、他の女の子が狙っている相手が由梨に近づいてきたりするものだった。相手の男性は完全にナンパ気分で気楽に言い寄ってくる。こちらは、ただの人数あわせなので困っていると、男性はそんな姿に萌えるようだ。こちらは溜まったものではない。針の筵に座らされ、どっちに逃げても、グラグラ煮えついた血の海が待ち受けているのだ。落ちたらひとたまりもなく、一気に死が訪れる。想像するだけで、ゾッとするものがあった。
そんな時に夢を見るもので、アリ地獄といい、沸騰した血の池地獄といい、自分のどこにそんな潜在意識があるのか、想像もつかなかった。
由梨は、自ら友達から離れていった。このまま、一生利用されて生きるような気がしてしまったからだ。もし、学校を卒業して、そこで以前の自分のことをまったく知らない人たちの中に入っても、そこでできる輪の中に入ったら、結局は利用されるに決まっているとしか思えなかった。
――自分の性格というものは、自分ではどうすることもできないーー
という思いをずっと抱いていて、利用されやすい性格であるならば、一生、そういう性格でしかない。
だから、一度自分のまわりをリセットする必要があった。
まわりから人の気配を消すことで、由梨は自分を一度リセットした。まるで自分を「路傍の石」のように、そこにあっても、誰も不思議に思わない状態にすることは得意だった。これも自分の性格の一つである。
まわりから気配を消し、自分からは見えているのに、向こうからは見えないという路傍の石状態に、少し興奮していた由梨だった。
――まわりから一切気にされていないというのがこんなに快感だったなんて――
と由梨は感じていた。
人に気を遣うこともない。そして、自分が何をやっても、誰も気づかない。実際にはそんな世界などありえるはずはないが、想像するだけならただだと思っていたこともあり、この状況を現実と想像の世界の狭間で楽しんでいた。
それは、あくまでも由梨の気持ちの中のことなので、誰にも見えるはずのないというのが真相で、由梨もおぼろげに分かっているので、自分の密かな楽しみを人に看過されることだけは避けたかった。
しかし、それを看過する人が現れた。しかも、知り合ってしばらくしてからというわけではない。知り合ってすぐのことだった。
もっとも、最初に少しでも気づいておかなければ、知り合っていくうちに、どんどんイメージが固まっていく中で、狭いイメージから、気持ちの中のことが分かるわけもなかった。
要するに、理解できる機会を失ってしまったのだ。
そういう意味では、最初に看過したこの人、いったい何者なのだろう?
由梨は、次第に今度は自分の方が知らず知らずに引き寄せられていくのに気づいた。その人こそ、何を隠そう、交通事故で亡くなった由梨の恋人だった松山明人だったのだ。
松山は、由梨のことが分かると言って、決して自分から由梨に近づいてこようとしなかった。それなのに、どうして由梨に、彼が自分のことが分かるということを悟らせたのかというと、ある程度まで近づくと、彼との間に静電気のようなものが走るのを感じたからだ。
彼の方では静電気に関しては感じていないようだが、静電気を感じてギクッとなった由梨に対して、彼なりの反応をしていたようだ。それなのに、どうして話しかけてこないのか、由梨には松山の考え方が分からなかった。
それなのに、どちらが先に好きになったのかというと、それは松山の方だった。付き合い始めてから由梨が松山に聞いた時も、彼の口から、
「そうだね。最初に好きになったのは僕の方だったからね」
と言っていたのを思い出すと、他の人には見えない由梨を自分が見えたことで、一目惚れに値する何かを感じていたに違いない。
――松山さん……
由梨は、いまさらながらに松山のことを思い出していた。
実際の事故多発の場所を見た岡本は、
「なるほどね。ここまでカーブが激しくて、それ以外は走りやすい道だというのを見ると、血の気の多い連中は、ここで度胸試しなんてことをしてみたくなるわけだ」
「確かに、若い人の被害者も多いですね。でも、家族連れなどの人も多かったりして、やっぱり危険な場所であることは間違いないんです」