表裏の真実
そんなまわりを見ていると、心理学を勉強していた自分には、その人の言葉の裏が見えてくる。見たくもないのに見えてくるのだ。
――心理学こそ、ありきたりのことしか教えてくれないんじゃないか?
という思いを抱いた。
自分の知りたいのは、表面上の人の心ではない。その奥に潜んでいる裏の気持ちである。ひょっとすると、裏の気持ちを教えてくれているのかも知れないが、自分にはどこまでが表で、どこからが裏なのか分からない。
――そもそも、裏と表って、隣り合わせなのか?
と思えた。
見えないだけでどこかに境界線があり、そこを超えると裏に突入するというイメージを持っていたが、そんな単純なものではないのかも知れない。
昼から夜に突入する時は夕方が存在し、夜から昼に突入する時は朝が存在する。ハッキリとした定義がないだけで、裏と表の間には、何かが存在しているのかも知れないと思うようになった。
それは心理学を勉強するようになってからのことで、心理学の勉強で得たもので一番大きいのは、この裏と表の間に何かが存在しているかも知れないという感情だった。
マスターは、店の客を見ていると、裏と表を探るくせが出ていることに気が付いて、ハッとすることもあった。
しかし、最近では裏と表を考えていてもハッとすることはなくなった。おぼろげながら、裏と表の間にあるものが分かりかけてきたからなのかも知れない。
ただ、それがどんな形をしているものなのか分からない。
「世の中には、形のないものもたくさん存在する」
という人もいるが、マスターはそうは思わない。
心理学を専攻している友達と話しになった時、相手が形のないものもあるということを口にすると、
「世の中にあるものにはすべて形があるんだよ」
とマスターは反論した。
「どういうことだい?」
「だって、この世にあるものは、必ず朽ちて無くなってしまうだろう? それは形がある証拠だよ」
「そんなことはない。人の記憶の中には、消すことのできない記憶だって存在するじゃないか」
と言うので、
「おいおい、何言ってるんだ。その『人』というのだって、永遠の命があるわけじゃないんだ。いずれは命が尽きてしまう。その時に記憶だって、無くなってしまうじゃないか」
「そっちこそ、本当にそう思うのか? 肉体は無くなっても、魂は残るじゃないか。だから永遠に残っているんじゃないかって俺は思う」
「でも、死んでしまったら、魂は本当にこの世にいるのかい? いわゆる『あの世』に行くんじゃないのか? もし、この世にいたとしても、俺は死んだ瞬間、この世の記憶も消えてしまうと思うんだ。まったく違った存在になってしまうんじゃないかと思うがどうだい?」
「その発想は、確かにそうだ。もし、お前のその理論が正しいと考えると、死んですぐに、今度は生まれてきた人の中に魂が乗り移っていると考えるのは突飛かな?」
「それは俺も同じ意見だ。死んだ同じ瞬間にも人はたくさん生まれているんだ。だから、記憶のない魂が乗り移るとも考えられる。そう思うとデジャブも説明がつくよな。だけど、最初の話題になった『形のないものは存在しない』ということに矛盾しているようにも思えてきた」
「いやいや、矛盾こそが心理学なんじゃないかな? 人間に矛盾がある限り、いろいろ研究ができる。俺はそう思っているよ」
そんな会話をしている時が、心理学を勉強していて、一番楽しく有意義な時間だと思っていた。それなのに、人間くさい話が飛び込んでくると一気に冷めてしまう。それは嫌だった。
マスターがバーをしてみようと考えたのは、心理学を勉強し続けて、実際の社会で何の役に立つのかと考えたからだ。
大学院に進み、大学に残るというのも選択肢としては大いにありえることだが、大学院に残ったところで、論文を書いて生きることを思えば、人の観察をしながら生きる方が、自分には似合っているような気がしてきた。
姉が死ぬまでは、大学に残って研究を続けることが、まわりに影響されることなくコツコツできるのでいいと思った。
しかし、姉が死んだそのすぐ後に学部長選挙があったのだが、その時に選挙の舞台裏が見えてしまったことで、大学内では、どこかの派閥に入らないと、生き残っていけないというリアルな部分を見てしまった。それにより、大学に残ることの無意味さを痛感したのだ。
――姉が教えてくれたのかな?
姉が生きていれば、どんなアドバイスをくれただろうか? きっと、何も言わず、今の自分の選択を黙って見てくれたに違いない。
マスターは、目の前で事故多発地帯の話をしている二人を見ながら、平静なふりをしていたが、何となく落ち着かない気分になっていた。由梨に対してその思いが強く、逢坂峠を事故の多発地帯として取材させたことが気になっていた。その思いがどこから来るのか分からないが、敢えて由梨が逢坂峠をターゲットしたのには、何か他に含みがあるのではないかと思えたのだ。
由梨と岡本は、バーでは詳しい話まではしなかった。この街にある二箇所の事故多発地帯があるということと、岡本には逢坂坂について取材をしてもらうように頼んだのだ。
バーを出た二人は、翌朝由梨が岡本の泊まっているホテルを訪ねるということでその日の話は終わった。あまり詳しいところまで話をしていないのは、由梨としては、下手に大げさな先入観を持たせてしまっては、正直な、いや、公正な目で事故多発地帯を見ることができなくなるからだろうという思いがあったのも事実だが、マスターが危惧したように、実際にはそれだけではなかったのだ……。
閉鎖的
その晩、由梨は久しぶりに夢を見た。目が覚めてからもしっかりと思えていた夢というのは珍しい。最近ではなかったことだ。
その日、夢をまったく見なかったと思える日と、夢を見たような気がするんだけれど、内容はまったく覚えていないという日、さらには、夢を見たのは間違いないが、覚えているのは中途半端なところで、まったく繋がっていないという日、そして、目が覚めても、見た夢の記憶が鮮明で、少なくとも目が覚める瞬間の記憶が鮮明な時と、大きく分けるとこのパターンに集約されると由梨は思っていた。
最近夢を見ていないと思っているのは、まったく見なかったと思っている日だけではなく、中途半端に覚えているので、それを自分では夢だと認めたくないという思いがあるからだ。要するに、
――覚えていないような夢は、いくら思い出そうとしても思い出せない。それは、覚えていないのではなく、記憶に残したくないという思いが潜在しているからだ――
と感じているのだった。
そして、夢を見たと自分で言えるのは、完全に意識の中で繋がっている夢だけだった。――人に説明のできない夢は見ていないのと一緒だ――
と考えていたのだ。
では、覚えている夢に、何か共通点でもあるのだろうか?
由梨にはその共通点は分かっていた。その共通点とは、夢の内容というよりも、夢の種類にあった。由梨が覚えている夢というのは、そのすべてが怖い夢だったのだ。