表裏の真実
と、さらに将来、大学に残るという道が自分の中で定まったかのように思えていた。
しかし、ちょうどその頃、姉の旦那によからぬ噂が持ち上がっていることをどこからか聞いた。
姉の一周忌の時だったかも知れない。
「旦那さん、すでにお付き合いしている人がいるらしいわよ」
通路の奥で、誰も聞いていないと思ってなのか、誰かに聞かれてもかまわないという重いからなのか、声を落とすこともなく、そんな話が聞こえてきた。
声の主は中年の女性のようだ。そして聞いている相手も同じ中年の女性。そんな噂には敏感な年齢なのかも知れない。
「別に、奥さんが亡くなって一年も経つんだからいいじゃない。子供だってまだ小さいんだから、子供の面倒を見てくれる人なら、それが一番いいことだと思うわよ」
そう言って微笑んでいた。
しかし、それを聞いたもう一人は、さらに声を潜めて喋りだした。
「そうじゃないわよ。そんなに生易しい話じゃないのよ。実は旦那さん、奥さんの自殺前から、その女性とお付き合いがあったんですってよ」
このような際どい話であれば、声を潜めるのも当然というものだ。しかし、それだけに話の信憑性は増したようで、ただの噂かも知れないとしても、信じないわけにはいかなかった。
「何ですって? じゃあ、あの旦那さんは奥さんを裏切り続けていたということ?」
「事情は分からないけど、状況に間違いがなければ、そういわれても仕方がないわね」
「それじゃあ、奥さん、死に損ということじゃない」
「そうなるわね。本当にお気の毒だわ」
他の人がどう思おうとも、マスターはその話を信じないわけにはいかなかった。
――なるほど、旦那の態度を思い出してみると、分かってくるところもある――
やたら、言葉は優しかった。自分の仕事が忙しいのは、家族のためと言って姉を安心させておいて、言葉だけの優しさを向けることで、安心させてしまう。
まさか、子供ができて奥さんが大変な時に、浮気なんかするなど、姉の想像できることではなかった。
姉の悪いところは、人をすぐに信じるところだった。もちろん、長所でもあるが、姉のようなまわりに溶け込むことのできない人にとっては、悪いところでしかない。
旦那の言葉は、姉にとっては「神の声」のようなものだったのかも知れない。疑う余地もないほど信じきっていたことだろう。マスターは、最初、そんな姉を不憫に思い、すべては、旦那だけの罪だと思っていた。
しかし、冷静になって考えてみると、さっきの話を聞いたうえで、姉の自殺した事実を考えてみると、
――まさか、姉は知っていたのかも知れない――
という思いが浮かんできた。
確かに育児は大変で、男の自分には想像もできないほどのストレスを抱えることになるのだろうが、自殺するほど追い詰められていたのだろうか?
他にも要因があって、育児とのジレンマに悩まされていることがあったのだとすれば、旦那の浮気というのは、自殺に追い込まれるには十分な理由だった。
そういえば、姉の遺書には、自殺の理由に対して何も述べられていなかった。
弟のマスターに対しては謝罪の文章があったが、夫に大しては確か書かれていなかったように思う。
警察も少し気にはなったかも知れないが、状況証拠もすべてが自殺を示していて、事件性はない。事件ではないので、おかしいと思っても、自殺の動機にまで踏み込むことはできない。
マスターは、もし姉の自殺の原因が旦那にあったのだとすれば、旦那を許せないのはもちろんのこと、姉にも恨みごとを言いたかった。
――どうして、相談してくれなかったんだ?
だが、さらに冷静に考えると、自分に相談されても、どうなるものでもない。もし、その時に相談されていたとして、自分は何と答えたのだろう?
「姉さん、あんな旦那と別れた方がいいよ」
と言ったに違いない。
しかし、その後のことを一緒に考えてあげられるのだろうか?
別れたとしても、子供の父親は旦那である。自分が子供たちの父親になれるわけではない。
確かに今の時代、離婚は日常茶飯事で起こっていて、似たような思いをしている人は山ほどいるだろう。本当であれば、似たような悩みを持っていて、それを克服下人に話を聞くのが一番いいのかも知れない。
しかし、それも人それぞれ、環境も違えば性格も違う。一概にその人のやり方が自分に合うとも限らないだろう。
そして、もっとも大切なことは、今その人がよかったと思っていても、将来考え方がどう変わるか分からない。
「離婚しない方がよかった」
と思うかも知れないし、自分のことだけではなく、子供のことを考えると、もっと難しい問題になってくる。
――姉さんも、かなりいろいろ悩んだんだろうな――
姉の性格とマスターは似たところがあり、姉が何を考えていたのか、分かると思える部分もあった。
最後には、誰のことも考えられなくなって、気が付けば死を選んでいたのかも知れない。死を選んでしまうと、気持ちが揺らぐ前に一気に死んでしまおうと思ったに違いない。だからまわりも、
「まさか、あの人が死を選ぶなんて」
と思ったことだろう。
普段から一人でいることの多かった姉だけに、悩みを表に見せたとしても、それがどの程度のものなのか、見当も付かないだろう。
それにしても、あの旦那も、姉の死について何も感じていないのか、ほとぼりが冷めたと思って、交際を公然のものとしようとしていた。
「まるで確信犯じゃないか」
旦那としては、自分へのあてつけに自殺をしたと思っているのかも知れない。
――やっぱり、旦那も姉が自分の浮気を知っていたと思っていたのだろうか?
疑い始めるときりがない。
――こんな時、心理学なんて、しょせん何の役にも立たないんだ――
と、マスターは感じた。
それから紆余曲折を経て、今では場末のバーのマスター。寂しさよりも、一人で自由を選んだ自分の選択は、今のところ間違っていないと思っていた。
マスターにとって、姉が旦那の浮気を知っていたのかどうか分からない。知らない方がよかったといえることもあるだろう。
――どうせ死ぬのなら、嫌なことは知らない方がいい――
姉が死を選んだことを責める気はない。旦那を姉のことを恨む気もないが、後になって知ってしまった自分のこのやりきれない気持ちをどこにぶつけていいのか分からない。
家では、姉の話題はタブーになっている。このあたりは昔の人の発想だろうか。
「親より先に死ぬなんて」
「他に何かなかったのかしら? 死を選ぶ前に」
と、姉が死んだ時、家族は皆口を揃えて、そう言っていた。
マスターは、敢えて姉が死んだ時、何も言わなかった。心の中はなぜかあっさりしていた。そのためか、まわりの言葉に心の中では反応していて、
――いまさら何を言っても同じさ。死んだ人が帰ってくるわけではない。他に何かなかったかって? あったら自殺なんかしないさ。死ぬしかなかったから死んだんだって、どうして受け止められないのか、口から出てくる言葉は、まるでドラマのセリフと同じじゃないか――
と言いたかった。