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半分夢幻の副作用

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 という思いを絶えず持っていることにした。
 一見、矛盾したような考え方だが、死を試みようという思いを持っていることで、本当に死ぬことがないと思うのは、日ごろから死を意識しないようにしていることが、不安や恐怖から来ているという当たり前のことを最初から意識しているからだと思っている。
 意識していないと思っていることほど、実は頭の中で恒久的に意識している場合が多いのではないかと思う。恒久的に意識することで感覚がマヒして、意識していないと自分で思い込むことが、恐怖や不安に打ち勝つことではないかと、認識しているのだろう。
 まるでその意識は本能のようなものではないかと思う。
 持って生まれた性格的なものに近いとすれば、それは論理立てて考えているものではないだろう。
 論理立てて考えようとするならば、必ず意識はするはずだ。だからこそ、梨乃は絶えず自分の意識の中に、
――半分だけ――
 という感覚を持っていた。
 知らない人に言えば、
「それは、逃げ道を作っているようなものだね」
 という答えが返ってくるかも知れない。
 だが、梨乃はそれでもいいと思っている。むしろ、逃げ道だと思っている方が、自分で安心できるからだ。
 人によっては、
「逃げ道を作って生きる人生なんて」
 という人もいるかも知れない。
 ドラマや小説では、いつもラストでは、逃げ道を作っている人が犯罪者だったりする。梨乃は、その思いを理不尽に思っていた。
 梨乃が、小説をラストから読むのは、確かに最初は自分の性格からのもので、あまりいい性格ではないと思っていたが、逃げ道を悪いことだとすることに対しての、自分の中での抵抗から生まれた行動もあったのだろう。
 そのことにすぐに気付いたわけではない。特に子供の頃にはそんな意識があったわけではない。
――いや、却って子供の時の方が、露骨に考えていたのかも知れないわ――
 逃げ道という明確な考えを持っていたわけではなく、自分の中にあるものが、他の人から見れば、悪いことに見えるということを、分かっていたのかも知れない。
 ただ、その中で、
――半分――
 という意識だけはあった。それがどのように自分に影響してくるのか分からなかったが、いずれは分かるものだという思いを持ったまま、中学を卒業した。
 そのまま高校に入学したつもりだったのに、そこに自分の中で世代の違いを感じるようになるなど、その頃に分かるはずもない。まだその頃は予知という意識を持つ前だったような気がするからだ。
 梨乃が、蔵人に小説のラストを話したのも、今から思えば、蔵人の中にも逃げ道という考えが見えたからだった。
 蔵人は、それを必死に隠そうとしていた。隠そうと思えば思うほど、人から見れば分かるもので、他の人なら、
――一体、何を隠そうとしているのだろう?
 という思いに駆られているのだろうが、同じように逃げ道ということが、無意識にでも頭のなかにある梨乃にとっては、蔵人の気持ちが分かるようになっていたのだ。
 きっと、蔵人も、梨乃のように小説をラストから読むことで、自分の中に逃げ道という意識があったことに気付いたのかも知れない。
 ただ、それがいつのことだったのか分からないが、少なくとも高校時代まではそんなことはなかっただろう。
 梨乃がクラスメイトを車に押し込める時に一緒にいた男に蔵人を感じた時、蔵人にとって逃げ道という意識があったなら、蔵人がいたことなど、梨乃には分からなかったと感じている。
 クラスメイトを連れ込もうとした現場を見たのは、今では妄想だったような気がする。クラスメイトに対して、あまりいいイメージを持っていなかった梨乃が勝手に描いた妄想、梨乃はよく、自分の気に喰わない相手に、そんな妄想を抱くことがある。それは人間に対してだけではなく、会社に対してもそうだ。
 鉄道会社に対しての気に喰わないイメージが、踏切だったり、自殺者だったりに集中する。自分が自殺を考えるのは、鉄道会社への腹いせに近いものがあるのも事実だ。
 鉄道会社への憤りは、そもそも事故に対しての対応のマズさから来ている。そして事故のほとんどが、自殺ではないか。自殺する人が、まさか鉄道会社に恨みを持っていたというわけではないのだろうが、梨乃の中では微妙に絡み合って、交わるはずのない平行線が交わってみたり、一本の太いパイプに、いくつもの蔦が絡み合ってみたりしている状況が見えている。時には、
――ジャックと豆の木――
 の話のように、一本の大きな蔦が、まるでアサガオの蔦のように巻き付いて生えているのを感じるくらいだ。
 アサガオの蔦には、どこか悲しさを感じていた。
 何かにしがみつかないと、生きることができない様子が見て取れて、密着するように絡みついてしまっているのに、絡みつかれた相手は暖かさを持っていない。それでもしがみついている姿は、どんなに前を向いて急いでいても、その場所から動くことのできない様子を表しているようだ。
――そう、まるでハツカネズミが、飼われている籠の中にある丸く回る玩具の中で、永遠に走っている姿を見ているようだわ――
 と感じた。
 子供の頃に、ペットショップでその姿を見て、そのまますぐに立ち去ることができなかったのを覚えている。
――一時間は、ずっと見ていたのかも知れないわ――
 あっという間だったような気がしているのに、時間が相当経っていたという記憶の原点は、ひょっとすると、この時だったのかも知れないと思うくらいだった。
 その時、理不尽というイメージを最初に感じたのかも知れない。
――一生懸命に何かをしても、決して報われることがないことだってあるんだわ――
 まだ、小学校低学年、そんなことを考えられる年齢ではなかったはずなのに、自分でも不思議だった。その時に梨乃は、
――大人と子供の違いって何なのかしら?
 と感じたような気がする。
 しかし、感じただけで、すぐに忘れてしまった。その頃は、感じたことをすぐに忘れてしまう頃だったのだろう。
――物心がついていない――
 と思ったとしても、本当は意識の中に一瞬だけでもあったのかも知れない。梨乃はそのことを今感じているのであって、感じることで、物心がついていなかった時期であっても思い出すことができるのではないかと思うのだった。
 物忘れが激しいというのは、年を取ってからのことだと思っていたが、どうやらそうではないようだ。物忘れというよりも、覚えていたいと思っていることを忘れてしまうという意味で、子供の頃が物心がついていないわけではなく、本当は洗練された頭脳を持っていて、覚えていないことで、物心がついていないと思っているだけなのかも知れない。
 まだ生まれ落ちる前の母親の胎内にいる時の記憶など、あるわけはないと思っているが、これも本当は見たという意識はあっても、すぐに忘れてしまうことで、記憶にないだけなのかも知れない。そう思うと、思い込みというのがどれほど記憶に影響を与えるかということを感じないわけにはいかない。
――子供だから、意識がなくて当然だ――
 という思い込み、それが意識を思い出させることを邪魔しているのだ。
 たとえば、文明ということに対してもそうではないだろうか。
作品名:半分夢幻の副作用 作家名:森本晃次