半分夢幻の副作用
彼の表情には、絶えず戸惑いがあった。照れ臭さにも見えるが、梨乃には戸惑いに見える。一緒にいるだけで、優越感に浸れる相手ではないかと思ってくると、少し彼が頼りない気がした。
だが、頼りないと思ってしまうと、今度は、彼を頼もしく思える自分がいるのに気付く。梨乃は自分の中にもう一人、自分がいると思っているが、一人の人を相手に、複数のイメージを抱くことはなかった。なぜなら一人の自分が表に出ている時、決してもう一人が表に出てくることはない。出てくるということは、タブーなのだと思っていた。
その表情を見ていると、
――おや? 以前にも同じような表情を見たことがある――
と思うと、自分の中にある、サディスティックな部分が顔を出した。それはずっと昔に封印したはずの気持ちだった。
封印した原因を作った元々は自分であるが、ちょうど、その時にマゾの相手がいたことを、恨めしく思ったことを思い出していた。
自分のことを棚に上げてそんなことを考えるのだから、まだまだ子供だった頃、そう、あれは、少年と呼ばれた男の子に対しての気持ちだった。
そう思って見ていると、目の前にいる男性の面影に、その時の少年が思い浮かんだ。顔が浮かんできて、重なり合うのを感じた。それはまるでサスペンス劇場で見た、指紋照合などのスライド写真映像が思い出された。
――今、サスペンス劇場の映像を思い出すというのも、皮肉なものだわね――
と、思っていると、こちらの思いを察したのか、目の前の男性が、ニヤリと笑みを浮かべたのを感じた。それは笑顔というよりも、含み笑いであり、不気味さを感じると同時に、やはり彼があの時の少年ではないかという意識がさらに強くなってきたのだった。
少年が、子供の頃に梨乃に対して含み笑いを浮かべたことはなかった。絶えず彼は梨乃よりも下にいて、梨乃を見上げていたのだ。今の目の前にいる男性は、梨乃を見下ろしているようにさえ思う。完全に立場が違っているのだ。
そのせいか、逆に立場が違っているにも関わらず、遠い記憶である少年を思い出したのだから、彼が少年だということを余計に感じさせるに十分な状況を今、作り上げているように思えてならなかった。
「君は、僕から逃れられないんだよ」
と、まるで梨乃はヘビに睨まれたカエルのごとくであった。
◇
男性が梨乃を見つめている姿をまわりから見ると、梨乃が萎縮して見えるか、それとも、まるでお見合いの席のように、照れから、モジモジしているように見えるに違いない。見え方は人それぞれであろうが、まったく違う雰囲気に見えてしまうというのはおかしなものである。
簡易のお見合いのようなものだが、実際にはまったく違った様相を呈していた。梨乃には子供の頃の後ろめたさが多少なりともある。だから、彼に見つめられると、申し訳ないという気持ちが表に出て、身体が動かなくなり、萎縮した姿に見えてしまう。実際に萎縮はしているが、
――その理由を人に知られてはいけない――
という思いが強く、梨乃にとっては、とてもこの場にいられず、一刻も早くここから立ち去りたいという思いになっているに違いない。
「場所、変えましょうか?」
これが助け舟になったというべきなのか、彼がどこに案内してくれるのか、怖かったが興味もあった。少なくとも人の紹介で知り合った相手に対し、変なところに連れ込むことはないはずだ。
「行きつけのバーがあるので、そこにしましょう」
「ええ」
梨乃も自分の行きつけのバーがあるので、バーという店の雰囲気は分かっていた。会話するにも事欠かないし、一人で佇むにもいい雰囲気を出している。一人もしくは二人が行くところという感覚が強く、この人が、バーという空間の中で、どれほどの存在感を示すのか、興味があったのも事実だった。
あまりアルコールは強くない梨乃は、食事を楽しむ雰囲気が好きだった。馴染みのバーのマスターは、結構雑学を知っていたりして、会話には事欠かない。一人佇みたい時は、雰囲気で分かるのか、話しかけられることもない。
――癒しの空間――
それが梨乃にとってのバーの雰囲気だった。
彼が喫茶店を出る時に自分の名前を明かしてくれた。
「僕の名前は中里蔵人と言います」
やはり少年の名前だった。
「私は、梨乃。塩崎梨乃と言います」
というと、
「梨乃さんですね。いいお名前です」
と、感心していた。彼には、梨乃が小学生の頃の同級生である梨乃だと気が付いていないのか。名前を聞いてもピンときていないようだった。
――あれだけマゾの部分を見られた相手に、ここまで意識がないなんて、完全に違う人になってしまったということなのかしら?
見る限り、マゾの雰囲気は残っているが、それは梨乃が彼のことを最初から分かっていて、意識していたからだ。
――ということは、私は最初から彼を意識していて、何かを期待しているということになるのだろうか?
と思ったが、それではまるで梨乃が彼よりも、自分の方が求めていることを認めないといけなくなってしまう。それは小学生の頃の立場関係から考えて、あってはならないことだと思った。
梨乃は、彼を見た時、
――あの時のことがまるで昨日のことのようだ――
と感じた。
時々、まるで昨日のことのようだという言葉を聞くが、蔵人に限っては生々しさがあった。
――彼の方なのか自分の方なのか、どちらかが、一気に時間を飛び越え、今の世界に飛び出した――
という感覚に陥った。
今の今まで、自分にはそんなことはありえないと思ったが、彼と二人きりだと思うと、子供の頃の彼との関係を思い出し、その間にあったはずの時間がなくなっていて、穴すら開いていない状況に陥るのだった。
まるで夢のような感覚だが、半分は本当のことのように思える。夢のように思うことが、最近多い梨乃にとって、夢だと思えば夢になってしまうような曖昧な感覚が襲ってくるのは、
――半分が夢の世界で、半分が現実の世界を見ているからなのかも知れない――
と感じるからだった。
梨乃が蔵人を紹介されて、
――こんな偶然あるわけない――
という思いだが、もし、これが夢だとすると、
――何でもありでも不思議ではない――
と思うのだ。
逆に全部が夢だと思ってしまうと、夢とは潜在意識が見せるものだという意識の中で、すべてが夢の世界であると思えば思うほど、
――ありえないことを夢であっても見ることはできないはずだ――
と感じることだろう。
半分が現実で、半分が夢だと思っている時の夢の側の世界だけが、現実から見ると、何でもありのように感じられてしまう。
「中里さんは、ミステリーを最後から読むとおっしゃってましたけど、どうしてなんですか?」
思い切って聞いてみた。それによって、自分の知っている蔵人と今の彼との間の溝が、少しでも埋まるのではないかと考えたからだ。
「そういえば、どうしてなんでしょうね? 昔、何かきっかけがあったような気がしたんですが、忘れました」
あっけらかんと言ってのけて、笑っている。
「実は、私も同じように小説を最後から読むくせがあるんですよ」
と言うと、