俊一郎の人生
人を助けたという感覚は優越感であり、少々のことは聞いても構わないと思った。ただ、それも事情を知らないと、そこから先どうしていいのか分からないという理由もあったからだが、少なくともその時に優越感に浸っている自分がいることを、俊一郎は自覚していた。
ただ、この思いを相手には悟られたくない。悟られてしまっては、助けたことが無になってしまうと思ったのだ。一旦感じた優越感を消すことは難しいが、相手に悟られないようにするのとどちらかが難しいだろう。
それを解消するには、俊一郎としては一つしかないと思っていた。自分を客観的に見ることで、どうすればいいかが分かってくるのではないかと思うのだった。
それは冷静な目で見るということで、俊一郎にはできると自分で思っていた。少なくとも、優越感を消してしまうことや、相手に悟られないようにすることよりも、容易にできると思っている。
彼女は黙っていた。
何も答えてくれない相手をじっと見つめていると、まるで自分が相手を責めているように感じられ、いい気分ではない。相手も萎縮してしまって、話そうとしても話せなくなってしまうようだ。こういうことは、最初に口にできればいいのだが、最初に言えなければ、後はどんどん言えない方の深みに嵌ってしまうようで、早めに切り上げるに限るのだ。
「言いたくなければいいですよ。話したくなったら遠慮しないでくださいね」
客観的な目で、冷静に自分を見つめていると、
――自分が何て冷たい言い方をしているのだろう?
と感じられた。口調もそうなのだが、抑揚もあまりない。感情が籠っているのか疑いたくなるほどだった。
――明るく聞けることではないしな。かといって、声が低いと、余計冷たさを感じさせて、せっかく温まった身体を、気持ちから冷やしてしまいかねないな――
と思った。
今までにあまり人と話をしていて自己分析をすることなどなかっただけに、この場の雰囲気がやはり異様であることを示しているのだと、俊一郎は感じたのだ。
彼女は、また少し黙ってしまったが、今度はさほど長くない感覚で、彼女の方から口を開いた。
「ありがとうございます。本当は、あのままでもいいと思ったくらいだったんですけど、こうやって暖かいところに戻してもらえると、やっぱり助けてもらってよかったって思います」
彼女の目からは涙がこぼれていた。その涙が、
「このままでいい」
と言ったことへの思いなのか、それとも、助かったことで安心感から自然と流れ出た涙なのか分からないが、その涙を見た時、
――この人とは、これからも関わりがあることになるような気がする――
と、感じた。
それは幾分かの願望を含んでのことだったが、それだけではない。
先ほど感じた優越感は自然と薄れてきたのを感じたが、まったく消えてしまったわけではない。彼女を見ていて、
――気の毒に――
と思っている間は、優越感が消えていない証拠だと思っている。
立場的には間違いなく優越感に浸ることができるものだが、優越感だけでは満足しないことも感じていた。
それは今までに優越感を感じた時には分からなかった感覚で、客観的に自分を見ることができるようになったことが幸いしているに違いない。
俊一郎は、学生時代にも同じように優越感に浸ったことがあった。
あの時も相手は女の子で、その時、その女の子は失恋してすぐだったのだ。
――まるで火事場泥棒のようだ――
と、今から思えば感じるのだが、その時は感じなかった。それだけ優越感に満たされていたのかも知れない。
優越感というのは、ある意味諸刃の剣ではないだろうか。立場が完全に確定すれば、どうしても抱いてしまう優越感。しかし、優越感がなければ、相手とどう接していいのか分からない。優越感が相手を助けることになるかも知れないが、一歩間違えば、どちらも傷つくことになる。
そこまで分かるようになっただけ、大人になったということだろうか。大人になったという定義を最近までは分からなかったが、今は分かる気がする。
――自分を客観的に見ることができるかどうかで決まる――
それが俊一郎が感じた、大人になったという定義だったのだ。
彼女がどこの誰だか分からないが、まったく知らない人ではないような気がする。ただ、見ていれば、何とかしてあげたいという気持ちが嵩じて、優越感を抱いたとしても、男としては無理のないことのように思えた。
女性の中には優越感を誰にでも抱かせるようなタイプの女性がいるのだと、俊一郎は思っていた。目の前の彼女が、その一人だということに気が付いたのは、彼女の唇に赤い色が戻ってきた時だったように思えてならない。
――好きになるという感覚に近いのかも知れない――
その思いが、優越感と背中合わせであり、一歩間違えば、諸刃の剣を抱え込むことになるのだということになると思う俊一郎だった……。
◇
不思議な力が備わっているということに、やっと最近気が付き始めた俊一郎だった。
趣味のデッサンは、すでに俊一郎には生活の一部になっていて、それを邪魔する人を、心の中で呪うようになっていた。実際に逆恨みに近いことではあるのかも知れないが。それに気が付いたのは、上司の課長が死んだ時だった。
上司は交通事故だった。
その時の状況を見た人は、
「その人は、前を歩いていて、フラフラしているなと思っていたんですよ。危ないなと思っていると、急に道路に飛び出して、走ってきた車に轢かれてしまったんですが、その時の様子は、まるで誰かに突き飛ばされたのではないかと思うようでした。でも、確かにそこには誰もいなかったんですよね」
上司は、酔っていたわけでもなく、体調が悪かったというわけでもなかった。五分前に仕事の帰り一緒だった同僚からは、
「普段と変わった様子は何もなかったですよ。気分が悪かったということもなかったですし、五分やそこらで急に気分が悪くなるということもないでしょうからね」
という話だった。
運転手側にも落ち度はなく、目の前に飛び出してきた人を轢いてしまったということで、本当に運が悪かったとしか言いようがなかった。
警察も不思議な事件ではあるが、形式的な手続きを取ることで、ただの事故として処理したようだ。
家族の心中を思うと、いたたまれない思いになったが、別に悲しくはなかった。
ただ、課長が死んでからしばらくして、おかしな噂が流れるようになった。
「課長は、ストーカーのようなことをしていたらしい」
というものだった。
独身なので、そんなことがあっても不思議はないが、仕事中の課長からは信じられるものではない。ただ、課長が意地悪なところは誰もが思っていたようだ。
「デートがある日に限って、残業になるような仕事をさせるのよ」
あるいは、
「家族サービスで、遊園地に行こうと思った時に限って、休日出勤の当番を入れたりするんだ」
と、課員のスケジュールを決めるのは、最終的に課長なので、課長の考え一つでどうにでもなるのに、まるで嫌みのようなスケジュールを組んでいた。
これは、俊一郎にとっても同じだった。