俊一郎の人生
屋敷の中には人は結構いたが、それも雇われた人たちで、それでももったいないくらいに何でも大きく作られていて、最初に感じたのは、壮大さよりも、その壮大さゆえに吹き抜ける風だったのかも知れない。
風は冷たくて、殺風景さが感じられた。ここまで寒さを感じさせる家を、その時までどころか、今でも感じたことがなかった。
友達の家で夕方まで過ごした。友達の部屋は確かに無駄に広かったが、それでも他の部屋よりもよほど暖かかった。やはり暖かさを作るものは、人なのだと、その時に初めて感じたのだった。
「また来てくれよな」
と、笑顔で友達は言ってくれたが、結局それから訪れたことはなかった。屋敷を出てから、すぐに後ろを振り返ると、来た時に感じた大きさとほぼ変わらない屋敷が聳え立っていた。
一度表から見て、中にも入って体験したのだから、もう一度表から見ると、今度は少しは小さく感じられると思ったが、あまり変わらなかった。それを感じた時、
――これほど大きな屋敷は、やっぱり俺の想定外の規格なんだろうな――
と思い、
――やはり、もう二度と来ることはないような気がする――
と感じたのだ。
二度と振り返ることもないだろうと思い踵を返すと、そのままバス停までの道を歩いていた。
屋敷を出る少し前くらいから降り出していた雪が、次第に気になり始めたのは、踵を返してからだった。それまでは屋敷の壮大さに自分が飲まれていたのかも知れないと思い、俊一郎は、早く自分を取り戻したかった。
雪を感じるようになったのは、それだけ普段の自分に戻ったような気がして、安心感があったが、少し強くなってくるのはいささか気になっていた。
バス停までは、それほどあるわけではないのに、なかなかバス停まで辿り着けるような気がしなかった。
――あれ?
足が重たく感じられ、それ以上前に進めないのを感じると、雪が一気に降り出した。
次第に風も強くなり、前を向いて歩いているつもりでも、
――本当に前に向かって進んでいるのかな?
と思えるほど、まともに歩けていないようだった。
――大丈夫かな?
一旦不安に陥ると、それ以上前に進めないような気がしてきて、完全に吹雪の中で止まってしまったようだった。
それでも歩くしかない。俊一郎は、前を向いて歩いた。前を向いてはいるが、目は半分しか開けられない。
――どこを歩いているんだろう?
と、思わないようにしていた。下手に不安に感じてしまうと、そのまま前に進めなくなってしまうように思えたからだ。
一度、真っ暗な世界で、前を向いて歩いていたつもりなのだが、真っ暗なのに、足元の道が、狭くなっていて、一歩足を踏み外せば、奈落の底にまっしぐらだというシチュエーションを感じたことがあった。
――これは夢なんだ――
と、直感したが、
――もし夢じゃなかったら?
という危惧がまったくないわけではなかった。そう思うと恐ろしくなって、前を向いて歩くことができなくなった。
しかし、後ろに下がるわけにもいかない。かといって、そのままそこでずっと立っているわけにもいかない。いずれ疲れてしまって、バランスを崩し、奈落の底に落ち込むのが分かったからだ。
――思ったよりも冷静なんだ――
やはり夢だと思っているからであろうか。
そんな夢を見たことを思い出していた。
吹雪の中で、まさか奈落の底があるわけはないが、身動きが取れないのは同じだった。あの時と同じなのは、そのままじっとしていても、結局疲れ果てて、そのまま倒れこんでしまうだけだということだった。
――同じだ――
さっきの彼女の様子を後ろから見ていて、
――これは、他人事ではない――
と感じたが、それは吹雪の時の自分が感じた思いを彼女に重ね合わせてみていたからに違いない。
吹雪が収まった時、雲の隙間から差し込んできた日に、虹が差したように見えた。それまで、どれほどの吹雪だったかというのを、意識は消えてなくなり、記憶として封印されたことを、子供だった俊一郎だが、分かった気がした。
吹雪など、それまではテレビでしか見たことがなかったはずなのに、吹雪を感じている時は、
――前にも同じ感覚を覚えた気がするな――
と感じていた。
よくそんな気持ちの余裕があったものだと思ったが、ひょっとして吹雪の中にいる間、
――これは夢なのかも知れない――
と思っていたのかも知れない。
夢であれば、前にも同じことを感じたとしても不思議ではない。ただ、夢で感じたことを、現実世界で感じるということがなかっただけに、全面的に夢だとして片づけていいものかどうなのか分からなかった。
元々、道端でバッタリと女性を「拾ってくる」など、想像もできることではなかっただけに、夢のような経験をした過去のことが意識としてよみがえってきたとしても、不思議ではない。
――今だからこそ、思い出せたことなんだ――
と思えば、それだけのことなのかも知れない。
そうこう考えているうちに、部屋も十分に暖かくなってきた。
俊一郎はすでに部屋の暖かさに馴染んでおり、本当であれば、風呂に入りたいくらいであったが、彼女を見ていると、そこまでできないのが分かったので、とりあえず風呂の用意だけはしておいた。
身体が冷え切っているので、いきなりシャワーはおろか湯船に浸かるなど、もっての他だろう。
それでも彼女を見ていると、すっかり身体の震えは収まってきているようだった。よく見ると真っ青だった唇に赤い色が戻ってきていたし、何となくではあるが、女性のフェロモンのような香りが、漂ってきているのを感じたのだ。
彼女は香水を付けているというわけではないようだ。甘い香りがするというよりも、酸味のある香りは、男性を惹きつけるに十分な香りであった。身体がだいぶ暖かくなってきたとはいえ、まだ少し違和感が残っている身体でなければ、酸味を帯びた香りに、男としてのフェロモンが放出されるかも知れないと思ったほどである。
「大丈夫ですか?」
再度声を掛けてみた。
「ええ、だいぶいいです」
と、やっとのことで声を返してくれた。
先ほどは、まったく顔を上げる気配がなかった彼女だったが、今度はハッキリと顔を上げて答えてくれたので、初めて正面から彼女の顔を見ることができたのだが、
――どこかで会ったことがあるような気がするな――
と感じた。見覚えのある顔だったのだ。
――今日は、前のことを思い出したり、見たことのあると思う人に出会ったり、そんな日なのかな?
と思ったが、まだその時は、ただの偶然としてしか思っていなかったのだ。
彼女にしても、見覚えがあるが、どこの誰だか分かっているわけではない。似たような人を以前に見たことがあるという程度のことなのかも知れないし、その日が、前のことを思い出す日だという意識の元に見るから、
――前に見たことがある――
と感じたかだけなのかも知れない。
「どうして、あんなところにいたんですか?」
俊一郎は、思い切って聞いてみた。
その時の俊一郎の心境は、目の前にいる女性を助けたことで、自分には聞く権利があるという思いでいたのだ。