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俊一郎の人生

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 そこは、寒さと暗さの中に点々と灯っている住宅の明かりが感じられる。まるで宇宙空間を思わせるところだった。
――空気のないところに風も何もないものだ――
 と宇宙空間を思い浮かべた自分に苦笑した俊一郎だったが、点々と灯っている明かりに暖かさを求めたい気分になりながら風を身体で受け止めている自分が、やはり早歩きをしているのを感じ、後ろを一旦振り返ると、さっきまでいた喫茶店が、点々と灯る明かりの中に消えて行ったことを感じたのだった……。

                   ◇

 俊一郎がデッサンするようになってしばらく経つが、趣味の世界でやっている時期が長かった。しかし、しばらくすると、
――生活の一部――
 となり、趣味から一歩逸脱した感覚になってからは、まだそれほどしか経っていない。
 それなのに、
――趣味でやっていた頃が懐かしい――
 と、かなり遠い記憶のように感じるようになったのは、時間の経過というよりも、意識の違いが大きかったからに違いない。
 趣味でやっている頃は、毎日が楽しかった。平凡にしか過ごしていなかった毎日に、新鮮な風が一塵吹き込んできたのだ。
 新鮮な風は、毎日をあっという間に感じさせ、そのくせ、一週間などのまとまった単位になると、かなり時間が掛かったように感じさせた。
 これが生活の一部に感じるようになると、逆に毎日が結構時間が掛かったように感じるわりに、まとまった時間の感覚はあっという間に過ぎてしまったようなのだ。
 まとまった時間があっという間に過ぎるということは、それだけ毎日が漠然としているのかも知れないと感じた。
 確かに生活の一部としてデッサンが入ってきたことは、充実はしているのだろうが、一部になってしまうと、自分の意識の外で、
――マンネリ化した毎日――
 という感覚になっているのだろう。
 デッサンは、どこかに出かけないとできないわけではない。やろうと思えば、写真を撮って来て、それをデッサンすることもある。本を見ることもできる。やろうと思えば、鉛筆とスケッチブックさえあれば、いつでもどこでもできる手軽な趣味なのだ。そう思ってずっとやってきたし、今も変わっていない。
 趣味を持っていなかった頃に比べれば、どれほど充実しているか分からないが、いつの間にか生活の一部になっていることで、マンネリ化しないように、自分の毎日の生活を精神的に圧迫しているということに気付いていなかったのだ。
 しかし、趣味だからといって、ただ、遊び心だけでやっているわけではない。スポーツなどでは大会に優勝したり、芸術的なことであれば、コンクールに入選するなど、形として夢を達成させられることもある。
 俊一郎は、今のところデッサンでコンクールに応募するという気があるわけではないが、機会があれば、発表を目標に目指すものが見つけたいと思っているのも事実であった。
 デッサンを毎日続けていれば、家にいる時間が漠然としたものになっていくのも事実だった。まず部屋に帰って、最初はシャワーを浴びたり、食事をして、落ち着いてからデッサンの時間を作っていたが、今は家に帰ればとりあえずデッサンに取り掛かる。それが終わってから汗を流し、食事を摂る。食事を摂りながらテレビを見るのも日課になっていて、テレビを見ているか見ていないか漠然としてしまったのは、この時からである。
 要するに、
――やることを先にしておかないと、気が済まない――
 ということであった。
 この性格は、学生時代の頃からあったわけではない。最近身についたものであって、いいことなのか悪いことなのかよく分からない中で、充実感を求めるには一番いいと思って続けているのだ。
 デッサンをしていると、他のことは目にも耳にも入らなくなる。気が付けば時間が過ぎている。しかし、デッサンをしている時、時間だけは気にしていた。
 毎日家でデッサンする時間を決めている。一時間をめどにいつもしているのだが、一時間は、充実感を得るためにちょうどいい時間だった。
 デッサンが終わると、少しだけ放心状態に陥る。シャワーを浴びていても、食事をしていても、あまり何も考えていないことが多い。実際には考えているのかも知れないが、
――気が付けば充実感に包まれている――
 という感覚が至福の刻なのだ。
 デッサンの時間と、その後の時間、同じ部屋で過ごしているのに、まるで違う部屋にいるようだ。いや、あるいは、同じ部屋にはいるのだが、そこにいる人は本当に同じ人間なのかと逆に考えてしまうほどとなっている。
 今までのように先に何でも済ませてからデッサンをしている時期が懐かしく感じられるようになった。つい最近までしていたような気がする時もあるし、本当に懐かしいと思う時もある。デッサンに使う時間は同じなのに、その時の気分によって、使った時間が違って感じられるのは、デッサンが終わった後にどれほどの疲れが残ってしまうかということに掛かっているのかも知れない。
 デッサンも毎日していたというわけではない。日課になってしまうと、生活の一部というだけではない、何か追いつめられる気分になるのが分かっていたからだろう。実際に今まで追い詰められたという気になったことまではないが、追いつめられた気分になってみたい気もする。その時に、本当に辛いと思うのであれば、デッサンを趣味の域から超えるようなことはないだろう。
 一度くらいは、コンテストがあれば出してみてもいいような気がする。この間まではデッサンしていることを人に言うのも恥かしいくらいだったのが、今は公表しているくらいだ。
 その公表が、果たして吉と出るか凶と出るかは、もう少し経ってからのお話であるが、少なくとも、人に隠すほどの恥かしさは、今ではなくなっていたのだ。
 趣味として楽しむというのが、どのあたりまでをいうのか、俊一郎には分からなかった。一人でただ楽しむ分には趣味の世界なのだろうが、生活の中に食い込んでくると、さすがに難しくなってくる。
 趣味をどこまでの範囲で捉えているかということである。普段の余った時間を利用して、リフレッシュのつもりでやっているのか、それとも、趣味をしないと、ストレスが溜まってしまって、まるで中毒のようになってしまうかなど、同じ趣味でも人それぞれではないだろうか。
 中毒のようになってしまっては、すでに趣味ではないだろう。いわゆるギャンブル依存症のような場合は、もはや趣味とは言えない。
 俊一郎は、ギャンブルをするわけではないし、スポーツをするわけでもない。何かに夢中になって、勝ち負けを争ったり、上達が実際に見えないと、ストレスとして溜まってしまったりすることもない。本当に普通の趣味と言っていいだろう。
 生活の一部になったからといって、二、三日しなかったとしても、それはストレスになるほどではない。たとえば仕事が忙しく、仕方なくできない時などもあるが、別に苛立つこともなかった。
 逆に落ち着いてから趣味をできる時というのは、却ってイキイキとしているのかも知れない。楽しいと思っていると、精神的に余裕が生まれてくる。まるで、ハンドルの遊びの部分のように、融通が利いてくるのだ。
作品名:俊一郎の人生 作家名:森本晃次