俊一郎の人生
必ず、どこかに前兆のようなものがあり、それが虫の知らせだったり、昔で言えば、下駄の鼻緒が切れたりした時に感じる「不吉な予感」である。
俊一郎は、次第に、自分の意識の中から課長が消えて行くのを感じた。それは時間の経過とともに、意識が薄れていくのと似ていたが、それにしては、違和感がある。違和感がどこからやってくるのか分からないが、俊一郎にとって前を向いていることに対して、違和感があるということを感じさせるものだった。
――何も見えてこない気がする――
過去を振り返るしかないということなのだろう。
――今のまま進んだら、近い将来、自分は死ぬことになる――
妄想の原点に戻って、大学時代を思い出していた。
あの時にも今と同じようなことがあったのをすっかり忘れていた。
俊一郎は、ストーカーをしていた時、交通事故に遭ったことがあった。あの時は命に別状があるようなことはなかったが、確か記憶が半分消えてしまったと言われたのだ。
消えた記憶がどれほど自分に影響があるのか、他人に分かるのだろうかと思ったが、その時は、医者の言葉を疑いながらも信じていた。承服していたと言っていいだろう。
頭を打ったということであるが、不思議とそれ以外はかすり傷だけで済んでいた。
「本当に奇跡的だ」
と医者は言っていたが、思い出しても、まさしくその通りだった。
一方的に悪いのは車の方であり、青信号で渡っていた交差点に、暴走車が突っ込んできたのだ。
どうやら、免許取りたての主婦のようで、ブレーキとアクセルを踏み間違えたという、珍しくもない事故だったが、命に別状もなかったということで、それほど大きな事件にはならなかった。
その時失った記憶について医者は、
「何とも言えないね。すぐに思い出すかも知れないけど、ずっと思い出さないかも知れない。でも、何かのきっかけで、一つを思い出すと、芋蔓式に、すべてを思い出すような気がするんだ。しかも、忘れていたということすら、思い出してしまうと、意識がない。つまりは、君は思い出したとしても、思い出したという意識がないから、結局は思い出したという事実は誰にも分からないだろうね」
まるで禅問答のような話だったが、何となく分かるような気がする。
「ということは、思い出しても、思い出さなくても、同じようなことなのかな?」
「決して、そうは思わないが、思い出したことで、君の環境が変わるとすれば、影響があったんだろうね。もし君が、自分の意識の外で、何か環境が一気に変わるようなことがあれば、その時は、記憶が戻ったのだと感じてくれればそれでいいと思うよ」
医者は、それ以上のことを語らない。俊一郎もそれ以上のことを聞こうとも思わないし、漠然とした話を聞いただけで、それ以上、その時に考えても仕方がないことだった。
あれから、十年近く経っていたが、それまでに思い出したという意識はなかった。
しかし、今回の課長の死から始まって、若菜との出会い、そして、頭の中で俊一郎は、果てることのない妄想を抱こうとしていた。
黙っていれば、どこまで妄想が発展していくか、分かったものではない。
俊一郎は、交通事故のことを本当に忘れていた。大学時代のことで思い出すのは、ストーカーをしていたことだけだった。
だが、交通事故のことを思い出すと、俊一郎の記憶の中に異変が起こり始めた。
それは、今まで自分がしたと思っていたストーカー行為は、自分ではなかったのではないかという発想に至ったことである。
確かに意識は鮮明で、妄想の中にもストーカーをしていたイメージがある。ストーカー行為と、風俗に通っていたことは、大学時代の思い出したくない記憶のはずなのに、その二つだけが、イメージとして大きく残っている。
風俗に通っていたことを思い出したくないと思っていたことを、今思うと、
――どうしてそんな風に思うんだ?
偏見を持たずに通っていたつもりだった。風俗に通うことで、気持ちも身体もリフレッシュできて、趣味のデッサンにも力が入ると思っていた。趣味のデッサンを思い浮かべた時に感じるのが、馴染みの喫茶店で見かけた女子大生が描いたという絵であった。
作者である女子大生とは、会ったことがなかった。会いたいと思いながらも、
「どうしてなんだろうね? いつも君とは行き違いなんだ。よっぽど相性が悪いんじゃないかい?」
と、マスターから茶化されていた。
「本当にこれを描いた娘は、この店にしょっちゅう来るのかい?」
と、冗談のように聞くと、一瞬、顔を曇らせたマスターは、寸時間を置いて、
「ああ、ちゃんと来てるよ」
と答えた。
――本当にそんな娘がいるのかな?
と思っていたほどで、今から考えると、その絵を描いた人は、その時すでに、この世にいなかったのではないかと思わせるほどであった。
もっともそう思ったのは、果てしない妄想が頭の中で堂々巡りを繰り返している中で、大学時代を思い出してしまったという意識があるからだ。
ひょっとすると、こんな妄想を抱くようになったのも、交通事故の後遺症なのか、それとも失った記憶が戻ってきた時の副作用のようなものなのか、俊一郎は頭を抱えたい気持ちになっていた。
たまに交通事故の夢を見ることがあったが、それが自分の大学時代への意識なのか、それとも、課長が交通事故で死んだということが頭にあるから見る夢なのか、特に最近多い交通事故の夢を見ることで、思い出したくない記憶を、近い将来思い出すことになるという意識が強くなっていた。
交通事故とは、一瞬のことである。すぐそばにいても、瞬きをしている間に、今まで元気だった人が無残な姿になり、物言わぬ塊として、横たわっているかも知れないのだ。そう思うと、俊一郎は交通事故の夢を見るたびに、自分の経験以上のものが頭の中に燻っていることを思い知らされるのだった。
交通事故が課長を思い出させるくせに、大学時代の自分とは結びつかない。
確かに十年という月日は長いものであるが、よく考えれば、つい最近のできごとだったのだ。
特に風俗に通っていた頃の意識は、最近の記憶に近い、二十五歳の頃まで付き合っていた女性のことを思い出すよりも、鮮明に思い出せるのだった。だが、その記憶も、今は曖昧な気がして仕方がない。クッキリと覚えているだけに、どこかに溝があって、ある一方からしか思い出すことができないようになっているとするならば、思い出す内容は、それ以上でもそれ以下でもない。毎回同じことを思い出すのだから、意識が近くても当然と言えるだろう。
一瞬で決まってしまう交通事故も、自分の記憶の中だけを思い出すのであれば、もっと頻繁に思い出してもいいだろう。ただ、別に交通事故に遭ったからと言って、何か新しいトラウマができたり、逆にそれまであったトラウマが消えたわけでもない。
――自分にとってのあの事故は、一体なんだったのだろう?
そう感じた俊一郎は、課長が交通事故で死んだと聞いた時、自分の中に何かの因縁があるのではないかと感じたものだ。
――やはり、あの時にトラウマが燻っていたのかも知れないな――