俊一郎の人生
ひょっとすると、魂の抜け殻のようになっていて、まったく起きる気配を示していないのかも知れない。それはいわゆるこん睡状態のようなものではないだろうか。
もし、そうだとすれば、急いで自分の身体に帰らなければ、自分は死んだことにされてしまうかも知れない。
女房子供はいないが、もし、自分が死んでしまったということになれば、親は悲しむだろう。自分の親が自分のためにどんな悲しみ方をしてくれるかということは想像もしたことがなかったので、今、再度想像しても、イメージが湧いてくるはずもなかった。
このまま目を覚ますわけにはいかない。人の夢の中にいるのだから、少なくとも、一度自分の夢の中に戻って、そこから目を覚まさなければ、元に戻ることができないように思えてならなかった。
――どうやって、自分の夢に戻ればいいんだ?
今俊一郎が考えていることは、若菜が目を覚ますか、それとも、若菜が自分のことを忘れてくれるか。あるいは、これは一番危険な考えだが、若菜が死んでしまうかのどれかしかないように思えた。
もし、若菜が死んでしまうと、夢はそこで中途半端に終わってしまい、俊一郎はそのまま夢の中に取り残され、どこにいくわけにも行かなくなる。
宇宙の墓場をサルガッソーというらしいが、夢にも墓場があって、夢の世界のサルガッソーが存在しているのかも知れない。サルガッソーというところは一度落ち込んだら二度と抜けられないというではないか。俊一郎は、それが一番怖いのだった。
若菜が俊一郎を殺そうと思った理由を再度考えてみた。
最初は、課長のことをイメージしたが、それだけではないような気がしてきた。死んだ人のことを思って、いくら夢の中だからといって、殺そうとまで思うだろうか?
そこまで思ってくると、もう一つの仮説が生まれてきたのだ。
――若菜は、俺を殺さないと、自分が夢から覚めることができないと思っているのではないか?
それなら、理屈は分かる。
自分の夢に俊一郎が入り込んでいることを知らないという仮説でずっと考えていたので気が付かなかったが、考えてみれば、課長が死んだことよりも、よほど切羽詰った事情ではないだろうか。このままずっと夢を見続けてしまっては、こん睡状態に陥り、まだ生きているのに、死んだことにでもされてしまったら、これ以上の恐ろしいことはないに違いない。
一人の夢の中に、他の人が入り込むというのは、タブーなのだ。だから、今までにそんなことを考えたこともないし、実際にありえないのだ。考えたことがないのは、誰かが考えてしまえば、人の夢に入ることのできる潜在能力を持った人が現れて、悲劇を生んでしまうことを恐れている何かの力が存在しているからであろう。
俊一郎には、潜在能力があったということであろうか。しかも、それを受け入れる相手がいたというのも、悲劇の始まりだ。
――このまま俺たちは、どうなってしまうのだろう?
すでに入り込んでしまっているので、尋常な精神状態でもなく、閃くほどの頭を有していない。
本当に考えることのできる頭は、元の身体に残してきたのだ。
今ここでは考えているのではない。考えさせられているだけなのだ。それこそ、何かの力によって、自分の運命と現状だけを最初から理解できるようになっている、要するに事実だけを見る目があるだけであった。
俊一郎は、そのまま何も考えない方が本当は幸せなのかも知れない。若菜の夢の中で、若菜が普通に目を覚ましてくれさえすれば、元の身体に帰ることができるのだろうが、若菜が疑問を持ってしまったことで、夢の中の状況が変わってしまっていたのだ。
俊一郎を殺そうと考えた時点で、すでに若菜は、夢の中に違和感を感じていたに違いない。ただ、殺してしまえばどうなるかという発想が、若菜にはないのだろう。
俊一郎は考える力はないと思っていたが、夢を共有している相手を殺したり、相手から殺されたりすればどうなるかということだけは考えられるようだ。それは戒めのようなものであって、考えているのとは少しニュアンスが違っているのかも知れない。そう思うと、何を考えればいいのか、方向性は分かってくるような気がした。
――考える力がないのではなくて、考える材料がないのかも知れない――
自分の身体の中にいれば、自分の経験から、いくらでも考える材料はありそうなものである。しかし、他人の身体に来てしまえば、考えられるだけの今までの記憶も環境も、どこにもないのだ。寂しさが不安に変わるのと似ているようなものだと、俊一郎は考えていた。
しかし、俊一郎は、それでも何とか考えようと思った。何もないところから何かを作り上げていくのが好きな俊一郎である。妄想も勝手に作ることができるのであれば、それは自分にとって持ってこいではないかと考えたのだ。
若菜は、それでも何とか夢から覚めようという意識を持っているようだ。最初は、これが夢だとは分かっていなかったはずなのに、どのあたりから夢を意識し始めたのだろう。
ひょっとすると、若菜は夢の中であれば、課長に会えると思ったのかも知れない。若菜の心の中にあるものは、課長に対しての自分の気持ちがハッキリとしていないことへのわだかまりであった。
今までストーカー行為をしていた相手を気にするなど、普通ならありえないことだ。若菜はそれを、
――恥かしいこと――
として認識しているようだ。
確かに、女性としては屈辱的なことだ。少なくとも犯罪行為であるストーカー行為をした相手が気になってしまうというのは、
――悪に屈した――
と思われても仕方のないことではないだろうか。若菜は正義感の強い女性だ。自分でもそのことは分かっている。分かっているだけに、課長のことを好きだとは、口が裂けても言わないだろう。
自分で内に籠ってしまうことが、若菜にはある。今の場合もそうなのだが、そのために、若菜は疑問に思った夢から覚めなければいけないと思いながら、内に籠ってしまうので、逆の作用が働き、目を覚ますことができなくなったのかも知れない。
俊一郎の身体が、今こん睡状態であるという胸騒ぎを感じたが、若菜の身体も、こん睡状態であった。若菜は自分の身体にいるつもりでいるようだが、実際には、表からしか見えていない。戻ることができれば、こん睡状態から抜けられるのだろうが、若菜は、自分の身体に戻ろうとすると、俊一郎が夢の中に存在していることを知ることになるだろう。
そうなった時、若菜はどう思うだろう?
殺してしまいたい相手である俊一郎が自分の夢の中に抱えこんでいる。そして、自分が身体に戻ってしまうと、俊一郎も自分の身体に戻るだろう。きっと困惑するに違いない。
しかも、困惑が続けば続くほど、袋小路から抜けられなくなり、本当に自分の身体に帰れなくなってしまうに違いない。
帰れなくなった時の若菜は、
――このまま死んでもいい――
と思うようになるだろう。
現実世界での若菜には考えられないことだ。それだけこの世界は現実と違っているのであり、そう思うと、今こうやって考えている俊一郎とは別の自分が、まわりの人から見えていて、実際に力を発揮できるのは、目に見えている自分だけではないかと思った。