俊一郎の人生
寝ていて考えると別の世界の自分が邪魔をする。妄想なら起きている自分が思いこむことなので、邪魔はないだろうと思うからだった。
ストーカーまがいのことをしていた大学時代に、妄想は遡っていた。
もう一人の自分が目の前の世界にいる。もちろん、こちらのことは分からない。マジックミラーのように、こちらからは見えるが、相手からは見えないのだ。それでも、
――そういえば、時々誰かに見られていると思ったな――
と感じた。
その感じたことが、自分のしていることをストーカーであると思わせたのかも知れない。
ただ、最初から何か悪いことをしているのだという意識はあった。意識したその時にやめることができなければ、時間が経つにつれて、やめることができなくなる。そのことを教えてくれたのも、誰かに見られているという感覚からだった。
同じような経験は、今までに何度もあった。
好きになった人に告白する時も、思い立った時に告白しなければ、次第に声を掛けにくくなる性格であった。だが、それは他の人も皆同じで、程度の差がどれだけ表に出てくるかによって、その人の性格が分かるというものだった。
時間が経つにつれ、いろいろなことを考えてくる。やめられなくなってしまうのは、後悔するのが怖いからではないだろうか。悪いことをしていると思いながらも、
――ここまでやったのだから、後戻りはできない――
という思いが頭を過ぎる。
そこには、意地とは違うものが存在していた。自分がストーカー行為をしているのは、相手も知っていることで、本当はここでやめてしまえば、それ以上問題が大きくなることはない。
もし、相手が気付いていなければ、やめていただろう。気付いていて敢えてやめないのは、見られることの快感のようなものが存在しているからだ。
やめるには、何かのきっかけが必要だった。警官に声を掛けられたことよりも、彼女が風俗でアルバイトをしていると聞いたからだ。
それまでの俊一郎は、悪いことをしているという思いよりも正義感の方が強かった。それも、勝手な思い込みの正義感である。
その時、俊一郎は、人生の分岐点を見たような気がした。風俗に連れて行ってもらった時のことを思い出していたが、あの時の胸の鼓動は、今思い出しても新鮮だった。風俗に対して持っていた偏見と自分がもう一度過去に遡りたいと思った時、ストーカー行為をしていた時を考えたのは、自分が考えたのではなく、何か自分の知らないところで力が働いたからではないかと思った。
さっきまで、妄想は自分の頭の中で繰り広げられていると思っていた。まるで夢のように潜在意識が働いて、過去のストーリーを都合よく変えてしまおうとしているのだと思っていた。
しかし、働いているのは、自分の中の意識ではない。ましてや都合よくストーリーが展開される舞台は整っていなかったのだ。
俊一郎が追いかけていた女の子は、まるで記憶にない別人であった。彼女は、まるで修羅のごとく、俊一郎を睨みつける。
――あの時、こんなに接近したわけではないので、彼女の顔をハッキリと見ていないが、悲しそうな顔だけが印象的だったのに、こんなに激情してしまうなんて、信じられない――
と感じた。
彼女に感じたのは、暗いというイメージより、大人の雰囲気を醸し出す清楚な雰囲気だったはずなのに、どうして暗いというイメージだけが残っているのだろう。それはきっと彼女が風俗でアルバイトをしているというイメージが頭の中に残ってしまったからに違いない。
――彼女がそのイメージを払拭させようと、俺をこの時に呼び寄せたのかな?
と思ったくらいだ。
そこは妄想というよりも夢の中だった。俊一郎は気付かないうちに眠ってしまって、夢の世界に入り込んでしまったかのようだった。
そこにいるのは、大学時代の自分と、大人の雰囲気を醸し出している彼女だったが、大学時代の自分は、もちろん、夢を見ている自分に気付いていない。
彼女を、大学時代の俊一郎はじっと見つめている。その視線に対して彼女は怯えを感じているようだった。それなのに、こちらを見ては、怪しげな笑みを浮かべている。
――その瞬間を大学時代の俺は気付いていないんだ――
その時の俊一郎は、ストーカーの気分になっていた。大学時代の自分がなりきれなかったストーカーである。
――どうせ夢なんだ――
という気持ちで見ていると、大学時代の自分にもその気持ちが乗り移ったのか、表情が変わってきていた。
もはや、そこには彼女の笑顔を見てみたいと思っていた自分はいない。夢の中なので何でもありだと思っている自分がいるだけだった。
――こんなはずではなかったのに――
何のためにこの時に戻ってみたいと思ったのか、やはり、彼女に呼び寄せられたというのだろうか。
「危ない」
遠くから、微かに聞こえたはずの声が、耳鳴りになって共鳴している。それは、夢を見ている自分も同じ時、大声を出してしまったからであった。
気付いて後ろを見た時には、もうすでに遅かった。恐怖に歪んだ大学時代の俊一郎は、後ろから走ってきた車に、あっという間に轢かれてしまった。
まるで人形のように宙に舞ったかと思うと、ドスンという鈍い音とともに、地面に叩きつけられた。即死である。
「じゃあ、今ここにいる俺はどうなるんだ?」
見てはいけないものを見てしまったと思った俊一郎は、そのまま意識がなくなってしまったのだった……。
◇
死んでしまった自分を見たというショックで、目を覚ますかと思ったが、まだ俊一郎はその世界にいた。
――まさか、このまま目が覚めないんじゃないだろうな?
少なくとも、死を見た瞬間に、自分が消えてなくなったわけではないので、目の前で繰り広げられた交通事故は、架空なのだろうと思った。
――自分だと思っているけど、実は違う人だった?
いや、さっきまで見えていたのは、間違いなく大学時代の自分だ。目の前には交通事故を聞きつけて、野次馬が集まってきている。そのうちに真っ赤なパトランプを光らせて、警察がやってくる。思わず、隠れようとしたが、
――相手には見えないんだった――
と思い返して、ホッとした気分になった。
だが、よくこの状況でホッとした気分になれたものだと思うほど、殺伐とした雰囲気が目の前に繰り広げられている。
それにしても、人の死というのは、何ともあっけないものだ。目の前で起こったことがあっという間に過ぎ去ったことで、あっけなさを感じるのだが、まるで他人事だ。何しろ自分は痛くも痒くもないからだ。
しかし、人影で見えないが、目の前に無残に横たわっているのは、紛れもなく自分なのである。
やがて、群がっていた人が、急にその場から離れようとしている。皆何かに怯えているようだ。その姿は、夢を見ている俊一郎を不安にさせた。
俊一郎には、何が起こっているのか、何となく分かるような気がしていた。しかし、それを認めることはできるはずがない。