俊一郎の人生
若菜が自分のすぐ後ろにいると感じた時、若菜が自分のそんな気持ちを分かっているのではないかと一瞬不安になった。
不安になって振り向いた時、若菜の姿が、遠くにあったのを見た時、正直ホッとした気分になったのも事実だ。
――もし、若菜さんと自分が知り合うことは決まっていたとして、どうして今なのだろう?
俊一郎は、若菜とは知り合うことは運命づけられていたとして考えるようになった。その上で、
――知り合うにしても、タイミングが必ずあるはずだ――
という、以前からの考えを、若菜との出会いに当て嵌めてみようと思う。
――若菜は、自分が歩んできた道を、後ろから歩んでいるのだろうか?
と考えるようになった。
だが、すぐにその気持ちは否定された。
――同じ道を歩んでいる人なんて、いるはずはないんだ――
俊一郎は、後ろを振り返った時、若菜が歩いている道を自分の道だと思ったが、考えてみれば、こちらに向かっては来ているが、自分の歩いてきた道ではなかった。道は俊一郎のまわりに放射線状に広がっていて、そのうちの一つを若菜が歩いているだけだった。
――出会いという道を歩いているだけなのかも知れない――
俊一郎が若菜を意識したから見えた道、普段想像すれば、決して見えることのない道ではないかと思った。
ただ、その道はまわりには草一本生えていない道で、舗装もされていない。薄暗い照明がついているだけで、若菜に感じた寂しさは、道を見れば一目瞭然だったのかも知れない。
もちろん、これは俊一郎の妄想だった。
俊一郎にとって妄想は、
――相手を理解するための手段の一つ――
でもあったのだ。
だが、人は考え事をする時というのは、何かを思い浮かべるものではないだろうか。
たとえば、一日の中の時間を思い浮かべる時、アナログの時計を思い浮かべて、長針、短針の角度によって時間を想像し、そして情景を想像するものではにないだろうか。
その発展型として、一年を月で見る時も、同じ十二である。時計をイメージする人も少なくはないだろう。俊一郎はそうなのだ。
どこまでが想像で、どこからが妄想なのかというのも難しいところだが、俊一郎が今若菜に対して想い浮かべた発想も、妄想だと思っている。
俊一郎が、妄想だと思ったのは、若菜に対して寂しさを感じた時、ただの寂しさだけではないことを感じたからだ。
寂しさを感じる人は、寂しさを解消しようと、まず考えることは、
――パートナーを見つけること――
である。
恋人なのか友達なのか親友なのか、その時のその人の心境によっても違うだろう。だが、若菜を見ていて、寂しさを感じながら、パートナーがほしいというイメージが浮かんでこないのだ。
まるで、もうパートナーはいるのだが、その人が自分の手の届かないところにいるのではないかというのを想像してしまった。
――まさか、そんな――
俊一郎は、そこまで考えると、またしても妄想が膨れ上がった。
若菜の寂しさに触れようとした瞬間、若菜の感情にも触れた気がした。それは寂しさではなく虚しさのようなものがあり、それをどう処理していいのか、自分の中で整理しきれないでいたのだ。
――若菜は、そのストーカー、つまり、課長のことが気になっていた?
それが恋愛感情だと言えるかどうかまでは分からないが、寂しさからパートナーを見つけようとする気持ちではないことが分かったことで、理解できた気がした。
振り返った時、遠くにいる若菜を感じたのは、それだけ最初から距離があるということだ。
遠くにいてこちらを見ている若菜の目は、憎悪に満ちていたのかも知れない。すでに妄想から覚めてしまっているので、もう二度とその世界を覗くことができないのは、俊一郎にとって口惜しかった。
◇
朝まで若菜と一緒にいたが、二人の間に何かがあったわけではない。妄想とはいえ、若菜が気にしている相手が、自分が殺したいとまで思い、実際に死んでしまった相手だと思うと、急にそれまでに漠然としてではあるが、見えかかっていた若菜という女性の全貌が、急に霧が掛かったように見えなくなってしまったのだ。
朝になると、
「今日は、どうもありがとうございました」
と、言って若菜は俊一郎の部屋を後にした。
今までであれば、連絡先くらい聞いておこうと思うのだろうが、若菜との「因縁」を考えると、そこまでの考えはなかったのである。
――彼女とは、もう二度と会話することもないだろうな――
と思った。
若菜は、俊一郎の態度の変化に気が付いたようだ。課長の話をした後、態度が変わったことに気付いたはずである。
――彼女は結構聡明なのかも知れないな――
ただ、俊一郎と同じで、考えていることを隠すことができない性格なのではないかと思った。
その性格のおかげで、今までに何度も痛い目に遭ってきているが、痛い目に遭わせていたその人こそが、課長だったりする。
言葉尻を捕まえて、揚げ足を取ったような言い方をする課長に、何度憎悪の気持ちを抱いたことだろう。
――若菜さんも、揚げ足を取られるような言い方をされて、困ったことが何度もあるんだろうな――
特に女性同士というのは、男性よりも露骨なところがあるという話を聞いたことがある。もちろん、全員がそうだとは言わないが、露骨な態度を取られると、気の弱い人は、精神的に参ってしまうこともあるだろう。神経内科に通ったりする人も若い女性には多いと聞く。自分の性格が災いしている人も中にはいるに違いない。
――若菜さんは、課長のことを自分が気にしているのを分かっているのだろうか?
死んでもいいと思った気持ちが、本当はどこから来るのかを考えてみた。
課長は死んだのだから、もうストーカー行為に悩まされることはない。解放された本人が、
――死んでもいい――
などと思うのもおかしなものだ。やはり課長のことを気にしていて、その課長がすでにこの世にいないことで、自分の気持ちを確かめることができない状態になり、前にも進めず、後ろにも下がることができるわけもなく、まるで、両側が断崖絶壁の狭い道に取り残された感覚になっているのかも知れない。
もう二度と会うことはないと思っていた若菜が俊一郎の部屋を訪ねてきたのは、それから一週間くらい経ってからだった。
若菜は、部屋の前で俊一郎が帰ってくるのを待っていた。
「どうしたんですか? 何か忘れ物でも?」
忘れ物なら、翌日にでも分かるというもの、一週間という期間が長かったのか短かったのかはハッキリとしないが、俊一郎にとっては、中途半端な期間に思えてならない。
一週間経った今から、若菜がこの部屋にいたあの晩のことを思い出すと、まるで昨日のことのように思えるのだが、時間はあっという間だった。あっという間に感じるということは、まるで夢を見ていたという感覚に似ている。もしかすると、もっと後になって表れると、夢を見ていたという感覚ではないかも知れない。逆にもっとハッキリと思い出せたのではないかと思うくらいだった。
――そういえば、同じ曜日だったな――