俊一郎の人生
「死に直面した時に、この話を思い出してくれればいい」
とでも思って小説を書いたのだろうか?
そこまで考えていたとはなかなか思えないが、結果として読者の中の少なくとも一人は考えたのであるから、作者に対して、
――してやったり――
という気持ちにさせてしまったのではないだろうか。
「死の恐怖」を実際に味わったわけではないが、違う意味での恐怖を味わうことになった。それは自分にも不思議な力が備わっていて、それが人を死に至らしめたのかも知れないという妄想だったのだ。
妄想なので、何をそんなに恐怖を感じる必要があるのかと、誰もが思うかも知れない。だが俊一郎には、
――妄想は不思議な力がもたらしたものだ――
という考えが浮かんだからだ。
妄想というのは、あくまでも頭の中で感じたこと。それが現実にならないから妄想であって、いくらでも思い浮かべることはできる。だが、それが現実になるのだとすれば、下手な妄想をしてしまってはロクなことがない。
今まで俊一郎は、
――妄想は自分の意志によるものではなく、潜在意識によるものだ――
と思っていた。
危険な妄想をしても、決して自分に危害が及ぶような妄想はしない。自分が嫌な気分になる妄想はしないというのが当たり前だった。
――自分が嫌なことは、妄想ではない――
と思っていたが、今は違う。
――妄想は、自分の意志や潜在意識に関係のないところによるものだ――
と、そこまで考えてくると、一つの仮説が浮かんできた。
――もう一人に自分の存在――
そう、もう一人の自分が心の中にいて、その男が妄想しているのだとすれば、恐怖の理由が分かってくる。
ただ、もう一人の自分の存在は、
――自分を守ってくれる存在――
なのではないかと思う。
それは風邪を引いた時などを考えれば分かる
「熱を出したりするのは、身体の中に侵入してきた菌と身体が反応し、禁を殺そうとしていることで熱が出る」
ここでいう「身体」は、無意識のものであるが、もしそれがもう一人の自分の存在であればどうであろうか。
もう一人の自分はあくまでも影であって、表に出ることはなく、しかも無意識に動いてくれているので、その存在はまったく本人の意識の中にはない。
ただ、これは表に出ている都合のいい発想であって、もし、もう一人の自分が、勝手に暴走を始めればどうなるのだろう。考えただけでも恐怖である。それが妄想と繋がれば、さらにハッキリと恐怖を感じる。それが、俊一郎の今考えている妄想に対しての考えである。
――今なら、俺もすごい小説を書けるかも知れないな――
と感じたほどだった。
しかし、小説を書いてみようとは思わない。
――きっと、もう一人の自分が許すはずがない――
と思うからだ。
もし、小説を書こうとしたとしたら、もう一人の自分が表に出ている自分を、抹消しようとするかも知れない。
――自分が表に出ようとするのかな? そうなるということは、二人の立場が入れ替わることになって、俺がもう一人の自分になってしまうことになるな――
と感じた。
だが、もし今の自分がもう一人の自分になってしまったら、どんな感情になるのだろう?
感情を持たなくなってしまうかも知れない。あくまでも表に出ている自分にとって、
――都合のいい存在――
でしかないかも知れない。
その時に意識がなければ、それでもいいかも知れないが、なまじっか意識が残っているとすれば、これ以上辛いことはないだろう。
目の前にいて、気持ちを身体で表すことができないのだ。じれったさなどというものではないだろう。
俊一郎は、鏡に映った自分を思い浮かべた。
鏡に映っている自分も、左右対称ではありながら、自分と同じ行動しかしない。そのことに、何も疑問を感じないのは、鏡の中の自分はあくまでも映っているだけだという意識に基づくからだ。
――もし、鏡に映った自分がもう一人の自分だとすれば――
と考えると、もう一人の自分は、現実世界の自分の思い通りにしか動かない。その時に意識を持っているとすれば、これほど辛いことはないだろう。
だが、逆に鏡の中の向こうの自分も、同じ世界を持っていて、相手は相手で、
――こちらが本当の世界――
だと思っているとすれば、二人の間に違和感はまったくない。それぞれに都合よく動いているだけだ。
そうなると、鏡という媒体がある時は、お互いに同じ世界になるように何かとてつもなく大きな力によって左右されていることになる。俊一郎は、ここまで考えてくると、それ以上考えるのを止めた。きっとそれ以上は堂々巡りを繰り返すことになるからだと考えたからだ。
その時、堂々巡りという考えを与えたのは、ある状況を思い浮かべたからだった。
それは、自分の左右に鏡を置いた時の発想である。
鏡に映った自分のさらに向こうにももう一人の自分がいる。それは、鏡に映った鏡が見せている光景で、それが、永遠と続いていくのである。
俊一郎は、その状況を思い浮かべたのだった。
――妄想に何かの媒体が絡んで来れば、そこには永遠に消えることのない堂々巡りが繰り返されることになる――
という発想が結論として浮かんできた。そうなってくると、妄想はそこで終わりである。いずれ同じ妄想を思い浮かべることになるだろうが、その時もきっと同じことを感じるに違いない。
俊一郎は、
――これこそ、自己催眠――
と感じていた。
発想すること、妄想することも一つの自己催眠だと考えると、小説を書いた作家の発想が他人事ではないように感じられた。
――この人と俺は、限りなく近いところに、発想を持っているのかも知れない――
と感じた。
危険な発想であるが、今の俊一郎には考える必要がある。課長の死に対してのモヤモヤした気持ち、そして、若菜と出会ったことが偶然であれ、必然であれ、納得できる何かが形にならなければ、頭の中がパニックになって、整理できなくなってしまうだろう。そう思うと、俊一郎は巡り堂々巡りを繰り返す寸前まで考えたことを後悔することはなかった……。
◇
「私、ストーカーされていたんだけど、その人のことが、次第に気になり始めたんですよ」
若菜がゆっくりと話し始めた。
「どういうことだい?」
「ストーカーされていたことは嫌だったんですよ。自分の生活を覗かれているようで、プライバシーもあってないようなものだからですね」
「それはそうだろう」
若菜は一体何が言いたいのか、すぐには分からなかった。
「でも、実際にストーカーがなくなってから、急に寂しさを感じたんです。まさか、自分がそんな風になるなんて想像もしていませんでしたから、ビックリしました」
ふと、さっき感じていた、
――もう一人の自分――
の発想が思い浮かび、もう一人の自分が今ここで出てこないように注意しながら、若菜の話を聞いていくことにした。
若菜は続ける。